バッハは晩年になって、自作の出版に意欲を注いだ。楽譜は筆写されて周囲に伝わったが、それだけでは十分ではなかったのだ。楽譜は記憶と伝承のためだが、出版となれば、さらに広範な弾き手や聴き手との出会いが目される。バッハはこの未知の手を信じた。当時は時代遅れと誹られもしたが、だからこそどこかで未来を想ったのだろう。鍵盤のヴィルトゥオーゾとして、対位法の大家としての粋を極める意図もそこに重なった。
バッハは鍵盤楽器演奏と作曲の技法を大いに揮い、当時の印刷技術を活用して、自作の出版活動に漕ぎ出した。想像力とテクノロジーを結ぶことで、未来を信じることに向かったのである。
「自作を出版にかけることが、その先、何世代にも亘って爪痕を残すのを、バッハは確信していたと思う。自分が死んで250年を超える歳月が経って、こうして未来まで響くことまでは考えもしなかっただろうけれど」
ライヴの現場、彼の言う「ショー」を愛するフランチェスコ・トリスターノが、エレクトロニクスの編集技術を存分に活用しつつスタジオに籠るのもまた、バッハの野心的挑戦のエコーともみられるだろう。ライヴとは異なる空間で、バッハをピアノで精細に表現する営み自体がそうだ。
「スタジオ録音でもライヴのフィーリングを創り出そうとすることはできる。でも、自分はライヴ・コンサートのほうが好きだ。音楽がずっと生き生きとしているから。だからこそ、スタジオではエンジニアとともに利用可能なツールとテクノロジーのすべてを駆使する。クラシックの録音方法ではなく、多くの異なるマイクロフォンで収録し、サウンド・エンジニアと協力して、ミックスをときには組曲の内でも変える。サラバンドではよりリヴァーヴを効かせて、音楽が息づかいを深く、残響を豊かにとるように。ジーグやプレリュードの急速な局面ではマイクを接近させて、ピアノの内にいるような感覚をリアルにもてるように。クラシックではオーソドックスな方法とは言えないかもしれないけれど、こうしたことは『BachCage』や『Long Walk』でも以前から試みてきた。自分の音を決定づけないのは、せっかくの機会を逃しているように僕にはみえる。グレン・グールドが言ったように、ピアノが第1の楽器で、スタジオは第2の楽器なんだ。グールドなら当時でも現在でも使えるテクノロジーはすべて活用したと思う。パンデミックになって人々がストリーミング・コンサートを始めたのをみたら、彼はきっと微笑んだと思うよ。グールドは無二の幻視者で、ピアノ音楽史上空前のヴィジョナリーだった」
バッハは“6つのパルティータ”をop.1として出版した。本盤の曲目はより初期の“イギリス組曲”ではあるが、フランチェスコ・トリスターノのop.1とみてよい作品になっただろう。
「ある意味では、確かにそうだ。これまで他のレーベルからも作品をリリースしてきたけれど、本作がキングインターナショナルとの素晴らしいコラボレーションによって、自分自身のレーベルで出せることに特別の思いがある」
それにしても、“イギリス組曲”全曲が、新レーベルの幕開けにリリースされたのは興味深い符合だ。バッハ自身がこの6曲のうちにも、作曲上の進展をみせているからである。
「そう、6つの連作の間にもバッハの進化がみられる。本曲集は後年の“フランス組曲”や“パルティータ”と違って、一種の謎が解かれないまま現代まで残されている。たとえば、アグレモントとドゥーブルをどう扱うかというのもそうで、僕なりのひとつの解決を本盤のトラックリストに示した。パズルの解き方は一様ではなく、そのプロセスがまたバッハを演奏する愉楽でもある」
“イギリス組曲”のアルバムは2022年12月にパリで録音されたが、23年10月には王子ホールでの全曲演奏会で卓抜な進境を示した。彼のバッハ探求の10年来のステージとなってきた同ホールの舞台で披露したのがその全曲だった。
フランチェスコ・トリスターノは演奏を機敏に進めながら、あたかもリアルタイムで音響をミキシングするように、精細なコントロールを効かせていった。弱音に大きく寄せた演奏で、羽一枚の重量の変化をみせるように、俊敏かつ軽妙に複雑なテクストを巧緻に織りなすさまに驚嘆した。
「いまではすでにディスク・レコーディングの時とは違う精神状態でこれらの曲に臨んでいるけれど、それこそがバッハの音楽の美しいところ。だからこそ、つねに可能性を探り、他にどのような潜在性があるかを考え続けている」
かくしてバッハのために未来はあり、それはまたフランチェスコ・トリスターノの未知の冒険のためでもある。
「6歳のときに先生に言ったんだよ、僕はバッハと自分の音楽だけを演奏したいんだって。それがいま、僕がしていることの大部分。このレーベルでは、バッハの鍵盤音楽のすべてを録音したいと思っている。自作もリリースしたいし、他のアーティストの紹介も。ボールは転がり出したんだ。未来が楽しみでならないよ」
フランチェスコ・トリスターノ(FRANCESCO TRISTANO)
1981年、ルクセンブルグ生まれ。地元ルクセンブルクの音楽院などを経て1998年にジュリアード音楽院に入学。在学中の2002年にバッハの『ゴルドベルク変奏曲』でアルバムデビュー。2007年の『Not For Piano』(日本でのデビュー作)をはじめとしてエレクトロニック・ミュージックの作品をリリースしながら、ドイツ・グラモフォンと契約し『ロング・ウォーク』(2012年)などを発表。2016年にはTransmatから『フラジャイル・テンション』を、2017年にはデトロイト・テクノの巨匠プロデューサー、カール・クレイグがオーケストラと共演したアルバム『Versus』に共作演者として参加。2017年にソニー・クラシカルと独占契約を結び、『ピアノ・サークル・ソングス』などを発表。2017年末に東京で坂本龍一のキュレーションにより開催されたイヴェント〈Glenn Gould Gathering〉に参加し、2018年にそのライヴ・アルバムも発売された。
寄稿者プロフィール
青澤隆明(あおさわ・たかあきら)
1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。クラシック音楽を中心に執筆。主な著書に「現代のピアニスト30―アリアと変奏」(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの「ピアニストは語る」(講談社現代新書)、「ピアニストを生きる―清水和音の思想」(音楽之友社)。好きな番組は「INSIDE ANFIELD」。