前作「哀れなるものたち」に魅了されたファンも必見。
胸の高まりが止まらない、ヨルゴス・ランティモス監督最新作

 今年、24年1月に公開された「哀れなるものたち」はとても印象的な映画だった。「籠の中の乙女」や「ロブスター」で知られるギリシア出身の映画監督ヨルゴス・ランティモスが描く不条理で、美しく、グロテスクでユーモラスな現実。自殺した女性の身体に移植された胎児の脳、そうして生み出された社会のルールの外側からやってきた女性ベラ。彼女の視線を通し我々が当たり前のようにして生きている世界のシステムをもう一度見つめさせるように映画は進む。19世紀のヨーロッパが舞台の重厚で美しい映像と時代も場所も超越した近未来SF的な流麗な背景が地続きに接続され現実離れした現実を描くその手法は高く評価され、主演女優賞を受賞したエマ・ストーンをはじめアカデミー賞の多くの部門でノミネートを果たした。

 壮大なセットの中で、息を吹き込まれた管楽器の音が人工的に曲げられ鳴る。その奇妙さが違和感となって美しい映像と共に生々しく人間の生を描き出す。好奇心を持ち常に新しい表現を求めるランティモスのチャレンジングな精神は「哀れなるものたち」の中にしっかりと息づいていた。これまでのオリジナルのスコアを用いなかったランティモスだが、ロンドンのインディ・バンド・シーンで活躍する、ジャースキン・フェンドリックスに劇伴(これが彼の初めての劇伴となる)を依頼し自身の映像の表現にさらなる深みを生み出したのだ。

 前作から1年をおかずに届けられたこの「憐れみの3章」ではランティモスのチャレンジ精神がより一層発揮されている。「哀れなるものたち」の直後にまったく違うアプローチをしてみせるというのもそうだが、奇をてらったような雰囲気をいっさい感じさせず、当然のように一筋縄では行かない映画を撮るランティモスは本当に凄まじい。スタイリッシュでユーモラス、そしてグロテスクなフィーリングを混ぜて胸を高鳴らせるエンターテイメントに落とし込むその手腕は見事としか言いようがない。3つの異なった物語の中、同じ役者が違ったシチュエーション、違った人物の人生を1つの映画の中で生きるという奇妙な複雑さを持つこの映画は、見ている最中に小さな混乱を、そして見終わった後の頭の中になんともいえない余韻と引っ掛かりを残していくのだ。

 1章〈R.M.Fの死〉では食べ物や持ち物、行動や嗜好、人生の全てを上司によってコントロールされる男の葛藤が描かれ、2章では海難事故から帰ってきた妻の変化を疑いこの妻は偽者だという思いに駆られおかしくなった男が、そして3章ではカルト集団の教義にあわせた人生を生き、その教えが指し示す条件にぴったりと当てはまる人間を探す男女の姿が描かれる。異常なシチュエーションであってもそれらはありふれた生活の風景の中にあり、その異常さは鏡となって我々の世界の現実を映し出していく。

 あるいは3章に共通しているのは〈この世界はこうであらねばならない〉という強迫観念的な思い込みなのかもしれない。他者の考えをコントロール出来ると思うこと、こうでなければならないと決めつけること、そうやって例外を排除し安心感を得る。決して直接的に描かれることはないが、この物語の奇妙さは映画が終わった後も、日々SNSを眺める頭に問いかけるようなイメージを残していく。