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人間の魂や創造性を信じる者 vs. BGMとして消費する者

第三の論点は、第一の論点と関連しつつも、より本質的なレベルのものです。あえて単純化して言えば、この間のリバイバル以降に浸透した現在のシティポップ観には、二通りの流れが入り混じりながら存在していると考えられます。

一つは、音楽的な野心に満ちたあの時代のミュージシャンたちが作家としての〈個性〉を刻みこんだ、代替の利かない創作物としてシティポップ一般の存在を捉える考え方です。リアルタイムで黄金期のシティポップを楽しんでいたファンに限らず、比較的若い人たちでも、プレイヤー志向の強いクリエイター/リスナー、および、音楽全般に特定の人物の感情の発露を求めるような熱心な聴き手には、どちらかといえばこちらの考え方に近い方が多いのではないでしょうか。

もう一つには、YouTube等のインターネット上での〈バズ〉を通じて、なんとなく懐かしくて洗練された都会的な音楽として、もっとハッキリと言えば、必ずしも作家性や〈個性〉が前景化しているわけではないある種の〈BGM〉としてシティポップ一般の存在を捉える考え方があると思われます。こちらには、Lofiチャンネルと“プラスティック・ラブ”の動画をネット上で行き来してきたような〈ライトユーザー〉や、もっと自覚的な例としては、例えばヴェイパーウェイヴ等のサンプリング元として関心を持ち、一種のアプロプリエーションアートにおける〈素材〉や〈意匠〉の性質を投影しながらそれに親しんできたようなユーザー達も、少なからず含まれていることでしょう。

この二者がそれぞれ〈AIシティポップ〉に触れたとき、どんな反応を示すでしょうか?

おそらく前者は、人間の手を経ておらず、〈魂〉や〈創造性〉の刻まれていないものとして、もっと言えば、そうした〈魂〉や〈創造性〉を脅かす存在として、明確に拒絶の態度を示すでしょう。

片や後者は、ネット上で親しんでいたシティポップ楽曲に(時に無意識的に)感じ取っていたBGM性が更に純化したものとして好ましく聴く(聞き流す)かもしれませんし、そこに殊更の嫌悪や恐怖を感じることはおそらくあまりないのではないでしょうか。更に、ヴェイパーウェイヴの方法論や、それ以前/以後のサンプリングミュージックの歴史的展開を楽しんできたリスナーからすれば、そうした〈魂〉や〈創造性〉のなさに、逆説的かつ蠱惑的な魅力を感じ取らないとも限りません。更に言えば、その中の最も急進的な人々から、〈AIシティポップ〉を、究極の〈シミュラークル〉、あるいは純化された〈架空の過去〉のサンプルとして積極的に受容するモードが生まれないとも限らないでしょう。

実際のところは、上のようにハッキリと二分できるわけではないでしょうし、元となったデラさんのポストにも、そういうアンビバレントな気持ちが表れているようにも思えます。しかし、こうした構図を皆が自覚的に把握しているかどうかは別として、同じポストにぶら下がっている様々な議論を見渡してみると、根本的なレベルでは、上述の立場の対立こそがそうした状況を生み出していることが浮かび上がってきます。

この議論は、当然ながら、どちらが正しくてどちらが間違っているのかを結論付けられる話ではありませんし、するべきでもないでしょう。仮に正否を簡単に断じられるとしたら、デラさんのかのポストがここまで大きな〈バズ〉に発展することはなかったはずです。有り体な言い方をすれば、芸術という存在に何を見出し、何を託そうとしているかによって全く異なる立場が導き出される一種の難題でもあるのです。

 

AIシティポップが現代に問う〈創作とは何か?〉

しかし、それでもなお間違いなく断言できるのは、今、音楽をはじめとした〈創作物〉にまつわる旧来の常識が、かつてない勢いと規模感で、大々的な挑戦を受けているということです。上で述べた通り、ここには著作権法上の難題も絡んでくるでしょうし、既存音楽業界のビジネスフローを土台から覆す可能性もあります。

猛スピードで発展する昨今の生成AI技術は、文章/絵画/写真/映像等のあらゆるカテゴリーを巻き込みながら、私達の想像を超えた驚異的な躍進を続けていくことでしょう。その展開を恐れるにせよ、歓迎するにせよ、そもそも人間の創造性とはいかなるものなのか、機械に創造的行為が可能なのかという根源的な問いから逃れるのは、ますます困難になっていくと思われます。

こうした問題系の最前線を映し出す〈AIシティポップ〉こそは、一見するとアナクロニックなサウンドを奉じながらも、現代社会における最も巨大な問いの一つを必然的に喚起する、全くもってクリティカルな存在と言えるのです。