伝統的な歌声とヒップホップのマインド
ノースキャロライナ州シャーロットを地元とするジョデシィは、K-Ciことセドリック・ヘイリー(69年生まれ)とジョジョことジョエル・ヘイリー(71年生まれ)、デヴァンテ・スウィングことドナルド・デグレイト(69年生まれ)とMrダルヴィンことダルヴィン・デグレイト(71年生まれ)という、2組の兄弟で結成。グループ名(JO-DE-CI)はジョジョとディヴァンテとK-Ciの名前を繋いだもので、ダルヴィンは後から加わったため名前が反映されていない。リード・ヴォーカルがヘイリー兄弟、サウンド・プロダクション担当がデグレイト兄弟で、全員ゴスペルをバックグラウンドに持つ。なかでもプリンスの大ファンだったディヴァンテは、16歳の時にミネアポリスのペイズリー・パークに赴き、毎日売り込みをかけていたほどプロ願望が強かった。
結局ディヴァンテが殿下に認められることはなかったが、地元に戻った彼は、89年、29曲が入った3本のデモテープを持って他の3人と共にNYへ向かう(『VIBE』95年8月号より)。めざしたのは、MCA傘下でアンドレ・ハレルが主宰していたアップタウン。最初はまったく相手にされなかったが、たまたま曲を耳にしたヘヴィDが彼らをハレルに推薦し、契約を勝ち取った。するとディヴァンテがアルB・シュア!やジェフ・レッドの作品に楽曲制作で関わり、ヘイリー兄弟もファーザーMCの“Treat Them Like They Want To Be Treated”(90年)に客演。サントラへの参加を経て、91年、レーベルの先輩にあたるガイに倣ったようなニュー・ジャック・スウィング曲“Gotta Love”でデビューを飾る。
やがて彼らは同年にモータウンから登場したボーイズIIメンと比較されることになるが、アイビールックに身を包んで品行方正な優等生を演じたボーイズIIメンとは対照的に、ジョデシィはヒップホップ的なファッションで初作『Forever My Lady』(91年)のジャケに写り、ストリートの悪ガキを気取った。そんな〈バッド・ボーイ〉なイメージを彼らに植え付けたのは、当時アップタウンでA&Rを務めていたパフ・ダディことショーン“パフィ”コムズ。むろん、そのイメージは音楽と直結していて、彼らの言葉を借りれば、〈マスにアピールするのがボーイズIIメン、黒人コミュニティーにアピールするのがジョデシィ〉だった。その違いは、万人を魅了した老舗のモータウン、ゲットーに住む黒人の若者を主な顧客とした新興のアップタウンという所属レーベルのカラーとも重なるものだっただろう。
ただし、彼らを有名にしたのは、アルバム表題曲の“Forever My Lady”をはじめ、“Stay”“Come & Talk To Me”という、連続でR&Bチャート1位を記録した3曲のスロウだ。荒々しい熱血シャウターのK-Ciとマイルドなジョジョのヴォーカルが際立つこれらは、10代初めから母親に半強制的にゴスペルを歌わされてきたというヘイリー兄弟のルーツを感じさせる正統派のR&Bバラード。そもそもグループの顔役であるK-Ciは、10代だった83~87年にリトル・セドリック&ヘイリー・シンガーズ名義でゴスペルのリーダー・アルバムを3枚出し、後にソロでボビー・ウーマックやニュー・バースで知られる名曲をカヴァーしたほどソウルの伝統に忠実なシンガー(泥沼の恋愛劇を繰り広げたメアリーJ・ブライジからも〈現代のボビー・ウーマック〉と言われたほど)で、彼の感性はプリンス経由の革新的なサウンド・センスを持つディヴァンテとはある意味対照的だった。もっとも、そのディヴァンテも教会出身なのだが(だからこそアル・グリーンを手掛けたのだ)、ジョデシィは、そうしたゴスペルに基づくヴォーカル&ハーモニーとヒップホップ以降のサウンド&マインドを結びつけたところに新しさがあったのだ。