©Sanne Peper

坂本龍一 × 高谷史郎(ダムタイプ)
いよいよ日本初演が迫る最新にして最後のシアターピース〈TIME〉

 坂本龍一が生前最後に手掛け、その一周忌となる2024年3月28日に日本初演を迎えるシアターピース〈TIME〉。1999年に日本武道館、大阪城ホールで上演され、約4万枚が即完売した公演〈LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999〉に続き、坂本龍一が全曲を書き下ろし、高谷史郎(ダムタイプ)とコンセプトを考案、創作しました。

 観客は、暗闇の中、雨音だけが響く客席空間に足を踏み入れ、本作の鑑賞体験は始まります。水鏡のように舞台上に揺らぐ水面と、精緻な映像を写しだすスクリーン。「こんな夢を見た」の語りで始まる夏目漱石の「夢十夜」(第一夜)、「邯鄲」、「胡蝶の夢」――一連の物語と溶け合うテキストとともに紡がれる本作を包括するテーマは〈時間〉。田中泯、宮田まゆみ(笙)、石原淋のパフォーマンスと、サウンド/インスタレーション/ヴィジュアルアート。そのすべてが、光と水が交錯し幻出する、幾つもの〈夢〉とともに、劇場空間で融合します。衣裳デザインにソニア・パーク(ARTS&SCIENCE)、音響エンジニアにZAKら、著名クリエイターを迎えた唯一無二のシアターピースが、遂に日本で初めて上演を迎えます。 *intoxicate編集部

 


坂本龍一
PHOTO BY NEO SORA ©2020 Kab Inc.

 多くのものが。あまりに多くのものが。

 そうおもえなくても、ほら、感じてみてほしい、明度の低さの、音響のしずけさに、どれほどのものがうごめき、変化しつづけているか、うごきの、映像の、声の、語られているか、はかれない奥ゆきがみる・きくものと舞台のあいだにあるか。

 坂本龍一+高谷史郎〈TIME〉。

 おもえば、20世紀を締めくくり、21世紀がひらかれる、そのときにつくられた坂本龍一の作品は〈LIFE〉であった。ほぼ四半世紀前に武道館でおこなわれた〈オペラ〉の規模をおもいおこすなら、2021年の〈ホランド・フェスティヴァル〉で初演されたシアターピースは、さまざまな点で凝縮されてはいる。〈LIFE〉と〈TIME〉、IとEとを共通に持ち、おなじ文字数の語は、それぞれ、シンプルでありつつ、シンプルであるからこそ、底なしの深みが。

 録画された映像でしか(わたしは)〈TIME〉をみていない。そのうえで考えたこと、想像したことは多い。こうした場で、上演を前に、劇場に訪れようとするひとにむけてそれを語るのは、危険だ。なにかしら描写するだけで、さきどりしてしまうことになるから。

 では、何が、語れるだろう。語れることを、吟味しながら、語れないことをていねいに、用心ぶかく、避けてゆかなくては。

高谷史郎

 テクストがある。

 夏目漱石「夢十夜」の第一夜、「枕中記」の「邯鄲」、「荘子」の「胡蝶の夢」。

 漱石の掌篇は、読んだことがなくても、十篇が集められた総題としては、みおぼえがあるはず。中国古典は、前者、熟語としてもつかわれるし、能の演目にもなっている。後者は高校の漢文教材にも。

 これらストーリーが、舞台の進行に沿っているかといえば、そうとはいえない。部分的に演者のありようや映像と照応しあっても、舞台のはじめからおわりへリニアに紡がれるわけではない。テクストは、英語で提示され、声で発されることもあれば、文字だけが浮きあがってくることも。ひとところでテクストは完結もしない。

 声は、ストーリーは、語られながら意味を、イメージを浮かびあがらせる。舞台にふれているひとのなかに「なにか」がつくられてゆく。ことばだけで、とはちがう。そこに音が、音楽があり、うごくひと・からだがあり、舞台があり、光/影があり、映像がある。こうしたものとともにあっての、意味であり、ストーリー。ことばだけ、とはちがう。

 文字は英語として、発されている声の飜訳でありながら、声は声としての存在感を、現前性を持つ。発されている(声の)と、うつしだされる(文字の)とはべつのはたらきになる。文字だけになったら、なおのこと。

田中泯
©AiriMatsuo

 「泯、人類をおどってくれ」

 坂本龍一は、言ったのだ、という。

 坂本龍一は音楽のはじまりを意識していた。藝大時代に同学年だった音楽学者、故・塚田健一と「commmons: schola アフリカの音楽」で対話したとき、ひとつの疑問を投げかけた。音楽のはじまりは、と。音楽学者は、こたえのでないものは扱わない、と明確に反応したが、音楽家は苦笑いをしたが、おさまらなかった。音楽家は、そこをずっと、いつまでも、考えつづける――つづけた。それは、解のない〈学〉の領域ではなく、解がなくても、いや、むしろ解がないからこそおこないをつづけている、つづけてしまう音楽家ゆえの探求ではなかったか。それはまた、踊ることの初源を、〈名付けようのない踊り〉をおどる田中泯とかさなる、つくるもの/創造者の業、としてではなかったか。

 

宮田まゆみ

 笙が、笙を吹いて歩む宮田まゆみがいる。鋭く切りさくような能管のひびきも、また。息と交流するふたつの管による〈とき・TIME〉へのちかづきとはなれ。坂本龍一の記した音でありつつ、そこをはずれる音・音たち。

 〈TIME〉をとおしてひびく坂本龍一による音・音楽は、アンビエント、というひともいようか。そういうひと、いいたいひとにとって、それはそうなんだろう(とおもう)。くりかえされる音型は、とりわけ、そうおもわれ、いわれがち、かもしれない。わたしはといえば、中心的な、くりかえされるひびきはむしろ、神話を音楽と同期させようとしたある作曲家を想起していた。その作曲家も、(ひとによっては)アンビエントかもしれない。

 ゆっくりとした、音域をかぎり、オーケストラ的な、アコースティックな楽器音へのちかさを模しているようなひびきは、舞台と客席のある空間を、支配する。語の本来の意味では、包囲する・取り巻く、ではあるが、音楽ジャンルとして流通しているニュアンスではつかえない――つかいたくない。

石原淋

 音・音楽は、舞台のなか、いくつかに分かれる。おなじ音型、おなじひびきが何度もでてくるから、場面に応じて、でありつつ、それほどでもない。循環している、ようでもある。また、もっと生々しい、坂本龍一じしんの手、指、また、手・指のうごき、すばやい刹那のうごきをおもわせるところがある。ひとつひとつの音を吟味している、音楽家の姿、その表情を、おもってしまうところも。

 だから……シアターピースとして、舞台の作品として(わたしはこの文章を書くために録画映像をみたのだったが)ふれる、みている・きいているじぶんとは距離のある舞台・作品としてふれているつもりではあっても、そこには、つくりての、坂本龍一の痕跡を感じてしまうし、そのつくりての不在もまた、どこかで意識してしまうのでもあった。それはまた、高谷史郎によるさまざまな映像が、坂本龍一が意識していたこの地球でのことどもであったりすることともつながっている。

 〈TIME〉は、坂本龍一がこの20年くらいのあいだにずっと考えてきたことを、ながくともに作品をつくってきた高谷史郎とであるからこそ実現できた、音・音楽ではないことどもを、映像をとおして実現した舞台だ。それはNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]でおこなわれている〈坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア〉とリンクし、互いは互いの作品/場所を照らしあって、坂本龍一の世界観、いや、コスモロジー(宇宙観)を垣間みせてくれる。

 ひとはまだ(とりあえずは)はなれることができずにいる時=間(TIME)。時=間をとらえるもっともふさわしいのは音楽、なのだろう、きっと。

 


INFORMATION
RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI
TIME 日本初公演

東京公演:2024年3月28(木)~2024年4月14日(日)東京・新国立劇場中劇場
京都公演:2024年4月27(土)~2024年4月28日(日)京都・ロームシアター京都 メインホール
音楽+コンセプト:坂本龍一
ヴィジュアルデザイン+コンセプト:高谷史郎
出演:田中泯(ダンサー)/宮田まゆみ(笙奏者)/石原淋(ダンサー)

■東京公演
主催:(株)パルコ/朝日新聞社/集英社-T JAPAN
後援:J-WAVE/TOKYO FM/interfm
広報グラフィック・デザイン:南琢也

https://stage.parco.jp/web/play/time/