エリック・サティ・メモリアル・バーベキュー
『エリック・サティとその時代展』にみるサティの超時代性
 

 『エリック・サティとその時代展』の「時代」とは、サティがノルマンディに生まれた1866年から1925年、パリの聖ジョセフ病院で59歳で歿するまでをさすとして、この時代にはおよそこんにち芸術とよばれうるものの可能性のほとんどすべてがでそろった、ともうしあげると該博の方のお叱りを受けそうだが、本展に登場する人物をザッとあげてみても、ロートレックユトリロロシュフーコーピカソコクトージョルジュ・ブラックブランクーシピカビアマン・レイ――錚々たる面々とサティは同時代を生きた。ここにもちろん、兄貴分であるドビュッシーと後輩のラヴェルがおり、ストラヴィンスキーとはディアギレフとのかかわりで因縁浅からぬものがあり(この点については後に論じる――というのはサティの「健忘症患者の回想録」の茶目っ気たっぷりの決め台詞というより繰り返し記号のようなものだけれども)、シェーンベルクは世紀末のウィーンで静かに音楽を解体しはじめる、その傍らでフロイトは精神分析を体系づけた。そこから遠からぬプラハでカフカはサティの死ぬ一年前に世を去っていた。アメリカでは未曾有の好景気がおとずれ、当時流行したジャズにひっかけジャズ・エイジと呼ばれた1920年代が恐慌を迎えるまでにはまだいくらか猶予があった、その時代こそ「エリック・サティとその時代」であり、この名を冠したこの展覧会はサティという音楽史上もっとも単独の思考を貫いた作家の生を編年体で編むと同時に、単独者であるがゆえにひとを惹きつけて止まなかったサティの周囲に集ったひとびとの作品までも総覧するものであり、生誕から1世紀以上を経て、これまでも何度か再考の機運が高まったサティの真意を「観る」またとない機会である。

 なんとなれば、晩年期のサティにパリで出会った米国のダダイストマン・レイのいうとおりサティは「眼を持った唯一の音楽家」であり、詩や散文、雑誌、作曲家がてずから譜面に書き込んだ箴言ともファルスともとれる指示やカット、挿絵もふくめて、サティの作品は観ることで顔つきを変えもするからだ。

コンスタンティン・ブランクーシ《エリック・サティの肖像》
1922年 ゼラチン・シルバー・プリント フランス現代出版史資料館
Fonds Erik Satie - Archives de France / Archives IMEC

 

 本展はサティの足跡に沿って、いくつかのセクションにわかれている。ノルマンディからパリに出てきたサティははじめ音楽学校の生徒だったが、学校生活になじめず、軍隊に志願するも、わざと体調をくずし除隊、モンマルトルに居をうつした。当時のモンマルトルは芸術家やその卵たちが夜な夜な集うスポットで、そのなかの文学酒場「黒猫」の常連となったサティはやがてそこでピアニストの職にありつき生計を立てたのはよく知られている。ロートレックがポスターに描いた「赤い風車」は「黒猫」とは別のキャバレーだが、ロートレックはアブサンを傾けながら当時のこの界隈に出入りするいかがわしい連中をいきいきと構成している。彼はユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンと同棲し、ヴァラドンはロートレックの導きでのちに画家になったが彼を棄てた。棄てられたのかもしれないが、彼女は1893年の半年間サティとつきあった。サティは女性と交際したのは後にも先にも彼女だけだった。幼くして母をなくし、継母に熱心に音楽を仕込まれ、恋人に翻弄された抑圧のせいだ、とフロイトならしたり顔でいっただろう。その数年前、サティは、彼の音楽遍歴のなかで「神秘主義の時代」と呼ばれる時期を迎えていた。黒猫で出会ったジョゼファン・ペラダンの主宰する「薔薇十字会」へ参加したのである。音楽学生時代、学校が肌にあわなかったサティは授業をサボり、ギリシャ文化やゴシック建築、中世のグレゴリオ聖歌を調べるために読書に耽るうちにサティはペラダンの書物も繙いていたという。ペラダンの公認作曲家となったサティは《星たちの息子》はじめ数曲を薔薇十字会のために書いたものの、ペラダンの専横ぶりにたえられず脱会。日本ではなじみはうすいが、神秘主義はキリスト教文化の裏面にはりつき、神秘のブラックボックスを経由した教義は歴史に顔をのぞかせるさい、異端ないしは陰謀論のかたちをとることも多い、テンプル騎士団を題材にしたエーコの『フーコーの振り子』しかり、『ダ・ヴィンチ・コード』しかり、いまも無縁でないどころか、ネットワークの助けを借りてそれらは簡単に増幅する。サティの独自性は神秘をキリスト教の外に求めたことにあり、それは一面からみれば異端でありながら、他方きわめて折衷的、越境的なものだった。この数年のあいだに書いた《3つのジムノペディ》、あるいは1889年のパリ万博でふれたガムランや東欧諸国の音楽の影響下で書かれた《グノシエンヌ》、学生だったころのギリシャ、中世への興味をふくめ、同郷の作家、アルフォンス・アレーがさしていったように、彼はすでに「秘境的」なサティだったのであり、高度に複雑化したワグナー以降の世界に簡潔な構造をもちこみ、和声の垂直性に教会旋法の水平性を対置した、天の邪鬼ともいえる方法のみぶりはしかし、この時期知遇を得たドビュッシーに啓示をあたえただけでなく、古代に遡行することで未来に循環するように、マイルス・デイヴィスのモード奏法をも彷彿させ、私たちの日々の生活のなかではBGMとしてさえ機能している。

 エスプリの利いた癒しとして? いや、サティのそれは浮遊するモードであり、感情を同定しないやり方なのだ、と私はその考えに抗いたいけれども、サティが生きていればおそらく、《家具の音楽》のように純粋に機能を目的としない曲であってもそこにそれを聴きわけるならなんだっていいのだよ、きみ、と笑ってやりすごしたことだろう。サティの耳はあらゆる音楽に優劣をつけなかった。コンサートホールであれキャバレーであれ、クラシックであれポピュラー音楽であれ。

 いやむしろ、サティは耳にさえ優先権を認めていなかったのではあるまいか。くりかえしますが、サティは観るひとであり、聴くと観るをならべ、観ることが聴くのをゆたかにするなら、ためらわずにそちらをとった。「読む」と「書く」またしかりで、「遠くから自分を見つめて」「きみ自身を頼みにして」神秘主義の時代の譜面にすでに現れていた指示記号は当初、レッスン生のかたわらに立つ教師のように、演奏者の手探りのためのとっかかりであり、サティは譜面に書きこんだ指示記号をいかなる場合でも読みあげることを禁じた。譜面に書きこんだことばは演奏者への指示である以上に暗号めいたなにかであり、作曲家から演奏者へ向けたナゾめいた手紙にも似ているゆえにそれは黙読されなければならない。本誌を手にとられた読者諸兄は拙文をよもや音読されておらないはずだが、黙読は近代に成立した概念であり、数百年の歴史しかない。それまでの読者は斎藤孝ばりに声に出して読みたがっていた。文章を共有するためにね。黙読の歴史は近代の内面の複雑化と期をともにしており、近代に書簡体小説が集中していることも、文章が二人称から三人称へと審級をあげる過程にあったことを裏打ちするようであり、弾くひとを読者に想定した譜面が、音楽の中身が高度化するにともないアマチュアの手を離れ、演奏家に専有され、書く(作曲)、読む(演奏)、聴く(鑑賞)体制が分断されるなかに聴き手が生みおとされるのにもそれは似ている。他者となった彼らと作者の関係もまた、小説と読者がそうだったように複雑化せざるをえないだろう。

 

エリック・サティ(作曲)、シャルル・マルタン(挿絵)
『スポーツと気晴らし』より《カーニヴァル》
1914-23年 紙、ボショワール フランス現代出版史資料館
Fonds Erik Satie - Archives de France / Archives IMEC

 

 サティも20世紀にはいり、彼のはじめての伝記を書いたタンプリエによれば後期の作にあたる《スポーツと気晴らし》は、モード雑誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』の依頼で、シャルル・マルタンによるポショワール版画とともに音楽画集の体で1914年に完成するも、第一次大戦のあおりを喰って出版は1924、1925年にズレこんだという。本展には挿絵と楽譜が展示される予定だが、秋山邦晴が『エリック・サティ覚え書』(青土社)で鋭く指摘したように、《食欲をそそらないコーラル》以下、みじかい20曲からなる《スポーツと気晴らし》は「デッサンと音楽という二つの芸術的な要素で構成」しただけでなく、音楽記号までも視角効果にうったえかけるところがある。スラーや音符の粗密がマルタンの線画をカリグラム的になぞる、この韜晦なトラップ(?)は編まれた書物のメディア性を前提にしたものであり、しかもそれは読む、聴く、観る領域にわたるマルチなものである――のなら、ここからピカソが舞台美術を担当し、コクトーがホンを、サティが曲を書き、上述のディアギレフ率いるロシア・バレエ団が演じた《パラード》まではほんの紙一重である。やはり一次大戦のさなか、1917年に初演を迎えた《パラード》は楽曲だけでとりだしてみると、未来派を思わせる騒音とジャズやタンゴの引用をひそませたいまの耳にはスキャンダルをまきおこしたとは思えないほどのんびりしたものである。ところがサティの前にはツァラブルトンダダの面々がまちかまえていた。にもかかわらず、永遠の新精神=サティはダダにとどまることなく、《ソクラテス》や《家具の音楽》といったさらに裸形の音楽へすすんでいく。そのすべてを書き記すにはこの余白はあまりに狭いが、ケージイーノばかりか、彼らの影響下にある音楽にもサティは息づいているのは私なぞがくりかえすまでもない。むしろサティの時代こそくりかえす。840回どころではない。私たちはいまもまだそのなかにいる。などといえば、「これぞVexations(いやがらせ)だよ、きみ」と単独者=サティはかえすだろうか?

 


Erik Satie(エリック・サティ)
【1866-1925】

作曲家。パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流を深めることとなる。その後、バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えた。


寄稿者プロフィール
松村正人(まつむら・まさと)

1972年奄美生まれ。編集者、批評家。監修~編著に「別冊ele-king」『読書夜話』、『ジム・オルーク完全読本』、保坂和志湯浅学の共著『音楽談義』。『山口冨士夫 天国のひまつぶし』『捧げる 灰野敬二の世界』など。


 

フランシス・ピカビア《「本日休演」の楽譜の口絵》
1926年 紙、リトグラフ フランス国立図書館
Bibliothèque nationale de France, Paris

 

EXHIBITION
『エリック・サティとその時代展』

会期:7/8(水)~8/30(日)開催期間中無休
開館時間:10:00~19:00 毎週金・土曜日は21:00まで *入館は各閉館の30分前まで
会場:Bunkamuraザ・ミュージアム
http://www.bunkamura.co.jp

LIVE
『サティ展開催記念 サロン・コンサート』

日時:7/22(水)19:40開演(19:30受付)
会場:Bunkamuraザ・ミュージアム(サティ展 展示室内)
演奏:中島ノブユキ(p)北村聡(bandoneon)
※チケット情報はこちらから