コンサートで聴いたり、スコアをみたり、のときにほとんど気づかないしおもいもしない、あるいはそんなに気にはならないのだけれど、ステレオの音量をしぼってCDをかけていると、武満徹の音楽に息つぎや休止がとても多い――多いように感じられる。

 スコアにはそんなに休符は、休止はない。小さな音符が細かく記されていなかったとしても、どこかで、なにかの、音がしている。しているというのでなくとも、音がのびていたり余韻がのこっていたり。

 めだった音たちのうごきはときに波になりときに島になる。くじらのようにすこし背を、背びれをみせて、潮がふきあげられることもある。つまりは、呼吸、吸って、吐く、そのさまがあらわれている、ような。

 かならずしも吸う、吸ったかたちはみえない。いまこの大気にあるものをただ口を開けばあたりまえにはいってくる、その空気は、いったんひとのからだにとりこまれ、あらためて吐きだされるとき、楽器、音楽のうつわをひびかせる。そして、武満徹のひとつひとつの音の島は、島という形容が、メタファーが、さほど違和感をもたないほどに、音楽=作品のなかにつぎつぎとあらわれては、視界、いや聴界から消えてゆく。

 息という言い方だと限定がすぎるだろうか。弦だったら、絃だったら、弓や指の、鍵盤や打楽器なら手や指の、ペダルの、リリースだろうか。

 武満徹作品を地図のようにみたことはあった(『武満徹 その音楽的地図』PHP新書、2005)。しかしそれはあくまで全体を包括的に眺めてみるひとつの方便に近かったとあらためておもう。それは2次元的なものでしかなかった。そうではなく、もっと立体的に、3次元的に、平面があったりでこぼこしたり、陥没したり。はたまた水面があわらわれて海溝があったり環礁があったりというようにとらえるべきではないか。いまはそんなふうにおもっている。そしてその3次元は反転もする。ぐるりと反転して島が陥没し環礁が隆起する、などと。

 おもうのは地と図、グラウンドとフィギュアか。

 はっきりとした音型があらわれる。ふ、っと途切れる。べつの音型があらわれる。音色が違ったり、発される音場が違ったり。はっきりした音型がなくとも、音はあり、音はうごき、うごめいている。あたかも地のようではある。絵画ならキャンバス、いや下絵、下塗りか。でもそれもけっして地、グラウンドでおさまりはしない。つねに地と図は反転しあうダイナミックな音のさまがつくりだされて。

 島があらわれ、と同時に、島が島だとわかるだけでなく、島の地質や植生、水に隠れているすがたなども透視できうるような。

 島が、島々がみえている海。海の表面はつねに揺れていて波が、波が、波がつぎつぎにやっては消えていく。ほとんどは凪いでいるのだろう、島がまず耳をひく、耳をとらえる。

 息をつぐ。

 手を、指を発音できるところにもっていき、音を発する刹那から音が発されるそのごく短い、短い短いところに、ふと、あらわれている音のない状態、や、音はしているけれどかならずしも島であるメロディや音型とに気をとられていると聴きおとしてしまったりする――するようなごくごくかそけき音、音たち。そこにいつしか、特に意識しなくても耳をむけられるようになれば。

 あるいは、潜ってみること、か。

 海に? 水に? 音楽に? 音に?

 息をつぐだけではなく、吸うのも吐くのもやめて、しばらくは呼吸をとめて音のさまを耳で触知してみる。水に潜るときのように、浮力を全身に感じつつ、いまにも呼吸困難になりそうなのを敢えてとどめながら、水のなか、探ってみる。息をしない、できないなかでこそわかることがある、かもしれないから。

 たしかに、いや、息をつめ、そんなふうに聴こうとしていた、聴いていたこともある、ような気がする。「わたし」は、ときに木管の奏者に、金管の奏者になり、打楽器奏者としてつぎの音を待機し、弦楽器奏者として弓を弦にのせていたことがある。どのときであっても、「わたし」は息をとめて、島の、海面から下の地表にふれようとしていた――。

 


寄稿者プロフィール
小沼純一(Jun'ichi Konuma)

1959年生まれ。早稲田大学文学学術院教授。第8回出光音楽賞(学術研究部門)受賞。音楽文化論、音楽・文芸批評の分野で幅広く活躍。執筆したライナーノートは膨大な数にのぼる。著書に、『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック』『魅せられた体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』(以上、青土社)、『ピアソラ』(河出書房出版)、『武満徹 その音楽地図』(PHP出版)ほか多数。訳書に、ミシェル・シオン『映画の音楽』(監約みすず書房)など。