君は「タケミツトオル」を聴かない、か?
この5CDBOXに感電せよ!

 あいみょんや米津玄師やヒゲダンを聴いている令和の若者たちはどんな〈ゲンダイオンガク〉を聴いているのだろうか? もちろんバズっている動画を追いかけていて、「他のジャンルは関心ない~~」という若者がほとんどだろうけれど、例えば吹奏楽部に在籍していて、J-Popも聴くけど、時にはクラシックで最近書かれたばかりの曲を聴くという少年少女たちが居ても良いはずだ、と時々思う。そんな時、その名前に出会ったら絶対にその人が書いた曲を聴いてみて欲しい、と僕が個人的に思う作曲家が武満徹(タケミツトオル)である。

 2020年はベートーヴェンの生誕250周年であるけれど、武満徹(1930~1996)の生誕90周年でもある。ちょっとだけ武満徹について説明をしておくと、ほとんど独学で作曲を学んだ彼は戦後日本の作曲界でかなり前衛的な作曲家として活動を続けた。1957年には初期の傑作とされる“弦楽のためのレクイエム”を発表。1959年に来日した巨匠ストラヴィンスキーがたまたまこの曲をテープで聴き、絶賛したというエピソードもよく知られている。そしてニューヨーク・フィルから委嘱を受けて琵琶と尺八を独奏楽器に加えたオーケストラ曲“ノヴェンバー・ステップス”(67年)を発表し、これが世界的な注目を集める。以後、世界の音楽人が武満の音楽を追いかけるようになる。そうした作曲活動と並行して、武満は数多くの映画音楽を手がけ、それらも海外で繰り返し上映されることで、武満という作曲家の名前を広く知らしめた。晩年にはオペラ創作の意欲も持っていたけれど、それは果たせずに66年の人生を終えた。武満の名前は、彼の死後に完成した東京オペラシティ・コンサートホール(初台)に〈タケミツ・メモリアル〉として残され、毎年そこでは、ひとりの現役作曲家が選考を担当し、世界から新人作曲家を発掘する〈武満徹作曲賞〉も開催されている。

若杉弘,沼尻竜典,外山雄三,東京都交響楽団 『武満徹オーケストラ作品集』 Columbia(2020)

 その武満の生誕90年を記念して、『武満徹オーケストラ作品集』(5枚組)というアルバムがリリースされる。これは1990年代に東京都交響楽団とDENONの共同制作として連続で新たに録音された5枚のCDを初めてBOX化したもので、それぞれのアルバムがリリースされた時にすべてが「レコード芸術」誌の特選・推薦盤となった。指揮者には若杉弘、外山雄三、沼尻竜典が参加。この共同制作は武満自身も途中までその録音に参加し、監修にあたったほか、彼自身がその作品について書いた創作ノートもライナーに加えられ、武満の音楽的なアイディアを直接知ると言う点でもとても貴重なものだった。5枚組で4,500円という価格は本当にお値打ちとしか言いようがない。

 その5枚の内容は初期の作品である“弦楽のためのレクイエム”に始まり、最後のオーケストラ作品である“スペクトラル・カンティクル”(1995年)まで、武満の主要なオーケストラ作品を網羅したものとなっていて、どのディスクから聴き始めても、世界を魅了した武満の音響世界が味わえる。歴史を辿るように、初期の作品から時代を追って聴いて行くのも良いだろうし、代表作“ノヴェンバー・ステップス”や2群のオーケストラを必要とする“ジェモー”などの大作から聴き始めるのも良い。あるいは、作品のタイトルで心惹かれるものがあったら、そこからスタートするのも面白いだろう。“鳥は星形の庭に降りる”“トゥイル・バイ・トワイライト”など、武満独特の作品のネーミングセンスは、そのバックグラウンドを知るとさらに興味深いものになるはず。

 僕が武満の名前を最初に見たのは、60年代末のとある雑誌の付録についていたフォークソング曲集の中の、谷川俊太郎の詩による“死んだ男の残したものは”(65年)だった。その後テレビドラマ「化石」で武満の音楽に再び出会い、映画音楽の作曲家として関心を持つようになった。それから当時出ていた武満の録音を聴くようになり、次第に深入りしていった。どんな形であれ、どんな時代であれ、音楽との出会いは突然やって来る。多くの若者が、この5CDBOXで武満徹と出会うと良いな、と思う。

 


武満徹 (たけみつ・とおる)
1930年東京生まれ。幼少時代を父親の勤務地である満洲の大連で過ごす。1937年、小学校入学のために単身帰国する。長じて戦時中に聞いたシャンソン“聴かせてよ、愛のことばを”で音楽に開眼。戦後、作曲を志して清瀬保二に師事するが、実際にはほとんど独学で音楽を学んだ。1951年には詩人の瀧口修造の下で、〈実験工房〉結成メンバーに加わり、いわゆる前衛的手法に沈潜する。1967年、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の創立125周年記念作品をバーンスタインから委嘱され、琵琶と尺八、オーケストラとによる協奏的作品“ノヴェンバー・ステップス”を発表。この成功が作曲家の名声を決定的のものにした。晩年にはオペラの創作にも取り組んだが、1996年2月20日、膀胱ガンのため逝去。残念なことに唯一のオペラは完成をみなかった。享年65。