もしあなたがアット・ザ・ドライヴ・インのことをマーズ・ヴォルタの前身のように位置付けているなら、そんな認識はすぐに改めてほしい。ごく普通のパンク・バンドとして出発しながら、彼らは物凄い勢いで進化し、〈スクリーモの先駆け〉とでも言うべきハードコアの新たなスタイルを提唱。ここからロックの歴史が変わるぞ!――多くのファンがそう期待に胸を膨らませた矢先、あっさりと活動を休止したカリスマたちはただの天邪鬼なのか。その答えを、バンドの真価を、証明する時が来た。準備はいいか?
この記事を書くにあたり、アット・ザ・ドライヴ・イン(以下ATDI)のカタログを順番に聴き返してみたら、〈おっ!?〉〈おおっ!!〉〈うぉー!!!〉と気持ちがどんどんどんどん上がっていった。彼らの作品を棚から引っ張り出すのは本当に久しぶり。2001年の分裂後は各メンバーが新たに取り組んだプロジェクトを追うのに必死で、過去を振り返る余裕なんてなかったからだ。ひょっとしたら、15年ぶりくらいか? それでもスピーカーから飛び出す激アツな音の放射を浴びた瞬間、これらの音源をリアルタイムで聴いた時の感覚が蘇ってきた。
そうだ、これだ。わけもわからず大声を上げたくなるというか、ゴールもわからないまま駆け出したくなるというか、衝動に突き動かされて理性のタガが外れるこの感じ。ATDIの音にはいつもそんな興奮があった――。
凄いバンドがいるぞ!
ATDIの結成は93年。テキサス州のエルパソで、当時はまだ高校生だったセドリック・ビクスラー・ザヴァラ(ヴォーカル)とジム・ワード(ギター)を中心に、フガジやバッド・ブレインズなど共通の音楽を愛する友人同士が集まり、遊び半分で活動を始めた。94年の10月に初ライヴを行った彼らは、翌11月にジムが立ち上げたウェスタン・ブリードから『Hell Paso』というタイトルもナイスなEPをリリース。同作を携えて早速テキサス内を行脚する。畳み掛けるように、95年の6月にはセカンドEP『¡Alfaro Vive, Carajo!』を投下。そして、以前からセドリックと付き合いのあったオマー・ロドリゲス・ロペスをベーシストとして迎えたバンドは、無謀にも(?)全米ツアーを敢行。ド田舎から出てきた何の後ろ盾もない新人グループならではのハングリー精神を原動力に、当時もオーディエンスの度肝を抜く激しいパフォーマンスを披露していたに違いない。何から何まで自分たちだけでやらなければいけないし、ギャラの保証だってない……という、なかなかタフなツアーだったと思うが、こうしてコツコツとライヴを重ねていくうちに、〈凄いバンドがいるぞ!〉とステージの熱狂が口コミで伝えられ、ATDIの名前は確実に広がっていった。
そんな矢先、96年のLA公演後に老舗パンク雑誌のフリップサイドのレーベル部門と契約を結び、同年8月にファースト・フル・アルバム『Acrobatic Tenement』を発表する。演奏面はまだまだ未熟ながら、ATDIのルーツにわりと王道なパンクがあることをはっきり聴き取れる興味深い一枚だ。その後、新たにポール・ヒノジャス(ベース)とトニー・ハジャー(ドラムス)が加入し、オマーはギタリストへ転身。いわゆる黄金のラインナップがここでついに揃うと、彼らは2度目の全米ツアーに挑戦した。ツアーが終わった時、ジムが一度バンドを離れたことからも、いかに過酷な旅だったか窺えよう。試しに地図を広げて、テキサスの最西端にあるエルパソの位置を確認してみてほしい。すぐ隣はメキシコだ。そこからだだっ広いアメリカの大地をギュウギュウ詰めの小さなヴァンで、しかも毎晩、精根尽き果てるようなギグをこなしながら縦横断するのだから、想像するだけでも気が遠くなる。それでもバンドの歩みは止まらなかった。彼らはまだ若かったし、それにまだ何も大きな仕事を成し遂げていなかったからだ。
ジム不在のまま3枚目のEP『El Gran Orgo』(97年)を出したものの、〈やっぱりヤツがいなきゃダメだ!〉ということで、すぐさま彼を呼び戻し、アルバム作りに着手する。今度はパンク・ブームに乗って勢力を拡大していたフィアレスからのリリースだ。『In/Casino/Out』と名付けられた98年発表の2作目を、ATDIの最高傑作に挙げるファンは多い。彼らが〈ハードコア・バンド〉じゃなく〈ポスト・ハードコア・バンド〉と呼ばれている理由は、本作を聴けば何となくわかるはず。そんな『In/Casino/Out』をきっかけに、バンドの人気はぐんぐん上がっていった。日本でもこのタイミングでATDIの名前を知った人は多かったと思う。
この音をどう捉えよう……
しかし、当時どれだけのリスナーが彼らのサウンドを本当に理解していただろうか。おそらく世界中を探しても、ほとんどいなかったと思う。もちろん筆者だって然り。どう捉えていいのやら、正直わからなかった。その頃は〈エモコア〉と括られていた記憶もあるが、そこにハメるにはあまりにもフリーキーすぎる。比較対象としてフガジやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの名前がよく挙がっていたものの、やはりどちらもピンと来るものではなかった。
つまり、ATDIはそれだけユニークな音世界を創造していたというわけだ。もしかすると、音源だけだったら彼らの魅力は限られたリスナーにしか伝わらなかったかもしれない。じゃあ、なぜこのバンドは世界中に中毒者を増やすことができたのか。その答えは、圧倒的なステージ・パフォーマンスにあると思う。
2000年、噂のライヴがようやく日本でも実現する。しかも5月の単独公演に加え、8月の〈サマソニ〉――このビッグ・フェスへの出演は多くの人にATDIを観てもらえる絶好のチャンスだった!――と1年に2度も来日。激情や衝動をストイックにぶつけるバンド・アンサンブルはもとより、セドリックの超人的なアクションや、彼とオマーの大きなアフロヘアのインパクトが、音楽性云々とは別のところでも話題をかっさらっていった。この年、日本におけるATDIの人気は決定的なものになったと言っていい。
ちょうど同じくらいの時期から、メディアを中心に彼らを〈ロックの救世主〉というか、カリスマ視するような声が上がりはじめる。そうしたムードも追い風に、2000年9月のサード・アルバム『Relationship Of Command』は、ビースティ・ボーイズの主宰するグランド・ロイヤル経由でメジャー流通される運びとなった。さあ、いよいよ本格的にメイストリームへ喰い込む時が来た!――そう思った直後……。
3度目の来日公演を行った2か月後、2001年3月にバンドは無期限の活動休止を宣言。当初は〈6年間ノンストップで活動してきた精神的および肉体的な疲労〉とアナウンスされた。しかし、おそらくメンバーそれぞれミュージシャンとして成長したことで、やりたいことやできることが増え、方向性に違いが生まれてしまったのだろう。その証拠に、間もなくジムとポールとトニーはスパルタを、セドリックとオマーはマーズ・ヴォルタを結成し、新たなサウンドを追求しはじめるのだった。