© Association Marcel Duchamp / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2018 G1613

フューチャー・レトロスペクティヴ
マルセル・デュシャンから学び直す

政治がむしろアートであるような状況のなかで

 このところの日本で日々を過ごしていると、むしろ政治がアートのように思えてくる。あんなとんでもなく汚いものはアートじゃないでしょう! という声も聞こえてくるが、ここでいう「アート」はとりあえず「美」とは関係ない。いわゆる狭義な「芸術」にしろ、もう古いけど、意外に根付いてしまった「アートな生活」ふうアートにしろ。

 そうではなくて、ネットとかで時事ネタを読んでいると「国会とはいえない」「(あれもこれも)閣議決定」みたいな文言が踊っている、そんな状況のことだ。だから、「美しい」なんてことは、逆に政治家に任せておけばいい。実は狭義な意味での「政治」認識では既に追いつけないのではないか。語の本来の意味での「アート」的な認識あるいはコンテンポラリーアート的な思考法で立ち向かう方が有効なのではないか、そういうことだ。

 前世紀の始め頃のこと。ルネ・マグリットはパイプの絵を描いて「これはパイプではない」と書き加えた。マルセル・デュシャンは工業製品である男子小便器に「泉」と名づけて、それを芸術作品だとした。マグリットの作品に関しては、ミシェル・フーコーが詳細に論じたことでも有名だ。デュシャンのそれは「レディメイド」として概念のようになっている。絵(芸術)として描かれたパイプはパイプそのものではないし、一方で既製品(レディメイド)の便器を持ってきても芸術といえば芸術なのだ。

 たまたま東京国立博物館でデュシャン展をやってたからでも、たまたま私自身の仕事の流れで勝手にデュシャンを想起してたからでもない。たしかに、共編著で『忘却の記憶 広島』(月曜社)なる厄介な本を仕上げ、その反動もあり、広くアート全般をめぐる本である、ボリス・グロイス『アート・パワー』(石田圭子他訳、現代企画室)、ジャン=リュック・ナンシー『ミューズたち』(荻野厚志訳、月曜社)、ロザリンド・クラウス『独身者たち』(井上康彦訳、平凡社)などを読んでいた。そこでどの本でも出てくるマルセル・デュシャンの重要性を再考してはいた。

 さらに、そのデュシャンに限定すれば、平芳幸浩『マルセル・デュシャンとは何か』(河出書房新社)、デュシャン+カルヴィン・トムキンズ(聞き手)『アフタヌーン・インタヴューズ』(中野勉訳、同)という素晴らしい書物も届いてしまったというのはある。デュシャンについてとか、詳しいことはその辺を読んでもらうのがなによりだけど、デュシャンについて知るだけではなく、「アート」について考えることが硬直したアタマの体操にもなるはずだ。デュシャンがチェス好きだったのは見逃せない事実だ。

 そして、ついでといってはなんだが、アートのなかでだけ許されていたようなことがいまや日常化していることがわかるかもしれない。私たちの方がうかうかしているあいだに、安倍晋三とその愉快な仲間たちは、畏れ多くもデュシャンよろしく「これが国会です」「これが国家です」と言い放ち、こちら側はアタマに来ながらも、言われちゃったからしょうがねえなあみたいに日々が過ぎていっているわけだ。

 狭義の政治としては、重要なのは手続き論だったりするだろう。あるいは、子どもじみた、いや小学生でもいわない、とりあえずの多数決で勝てばなんでもできるみたいな横暴さなり。さらに、「良識派」みたいな人で決してやつらに投票してない人でも「選んでしまった責任(トホホ)」みたいに言ってる情けなさ。なんて、すさまじい惨状だ。危機はこの国だけではないにしろ、それでもまださまざまな力が拮抗しているようにみえるぶん、ここより外にはまだしもの希望があるかもしれないが。

 

制度をあぶりだし、その向こうにいく

 「芸術」と書くべきなのか「アート」と書くべきなのか。ここでは、「芸術」という日本語が狭義の文化ジャンル用語のようなものを指すことにしよう。古典的な芸術。軽い用法での「アート」ではなく、あるいはそれも含めての「アート」の方は、「芸術」からはみでる契機をも含んだ何かみたいに使っているように思う。

 長らく私たちは、「政治」と「(文化)芸術」はまったく別のものと思って、あるいは思わされてきた。世界が西欧近代化からグローバル化する以前から、世界中に「芸術」(のようなもの)は遍在するにしろ「芸術」は西欧の概念である。

 ところが、これが非常に厄介なもので、ジャン=リュック・ナンシーが言ってたと思うが、「絵画を見たり音楽を聴くことはできても、実のところは芸術を見ているわけではない」ということになる。詩や小説を読むことはできても、「文学」を読んでいるとは限らないというのも同じことだろう。「芸術」や「文学」は実は遍在しつつも見えないものなのだ。

 そうしてみると、「芸術」は不可視の制度のようなものであることがわかるだろう。この「制度」ということばも、別に明文化された法律とかの固い制度だけではなく、なんとなく人びとが共有してしまい、自分たちを知らず知らずと拘束してしまう力みたいなものだ。「政治」と変わらないどころか、そのまま別の政治なのだ。

 芸術家が「芸術」だといえば芸術になったし、今もそうなのだというのがデュシャンの教えのひとつだったはず。そこで、はたといろいろなことに気づいた人たちも少なくない。しかし、現実にはそうそう制度は変わらない。歴史も芸術もそうそう終焉しないのだ。ダラダラと続き、残存して停滞していく。

 歴史の終焉だのといえば、いわゆる「ポストモダン」なわけだ。アートの領域などの方で先行した議論でもあった。建築などの例がわかりやすいが、ポストモダンのひとつの可視的な現れはいわゆる折衷様式であり、「リニアに進んできた」という言い方をされる近代までの様式の変化としての歴史がごっちゃごちゃになったような状況を指していた(リニアモーターカーも実現されないままに過去のものになってしまい、また復活してきたわけだ!)。雑な議論を承知のうえで進んでいくが、それでいえば、当時はよくわからなかったポストモダンが誰の目にも明らかに全般化したのが現在ともいえるだろう。過激に文脈無視でなんでもありになったわけだ。

 以前は、音楽やアートはとにかくあらゆる状況を先取りしていた。しかし、今はどうなのだろう。たしかに、音楽もアートも進むところはどんどんと進んでいる。私たちがついていっていないだけなのかもしれない。そうこうしているあいだに、誰かがあらゆるものを簒奪していく。

 さきにあげたような本を読めば、安倍晋三とデュシャンを比べるなんてとんでもないことだと思うだろうが、一方で、やつらが盗んでいるものが半端に政治とかを語っているだけですむものだけではないともわかるはずだ。そして、さきにあげた平芳さんのデュシャン論では、デュシャンはアートの制度をあぶりだしただけではなく、その向こうに行っていたこともわかる。

 いま、デュシャンを知ること、アートと格闘するあるいは戯れることは、この全般化する危機のなかにあっても後退でもなんでもない。もっとも戦闘的な営為だ。

 

BOOK DATA

『マルセル・デュシャン アフタヌーン・インタヴューズ アート、アーティスト、そして人生について』
マルセル・デュシャン
カルヴィン・トムキンズ/聞き手
中野勉/訳
[河出書房新書 ISBN:9784309256061]

『マルセル・デュシャンとは何か』
平芳幸浩/著
[河出書房新書 ISBN:9784309256092]

『百年の《泉》……便器が芸術になるとき』
平芳幸浩+京都国立近代美術館/編
[LIXIL出版 ISBN:9784864800358]

『マルセル・デュシャンとチェス』
中尾拓哉/著
[平凡社 ISBN:9784582284485]

『マルセル・デュシャンの向こうに日本がみえる。東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展マルセル・デュシャンと日本美術』
松嶋雅人、鬼頭智美(東京国立博物館)三浦篤(東京大学)/著
[東京国立博物館 ISBN:9784907515416 C3070]会場販売のみ

『デュシャン 人と作品 序章・各章解説:マシュー・アフロン』
エッセイ;セシル・ドブレ(「アンフラマンス」)アレクサンダー・カウフマン(「精密光学」)マイケル・R・テイラー(「レディメイド」)ジョン・ヴィック(「絵画唯名論」)
[フィラデルフィア美術館出版部 ISBN:9780876332849]

 


マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)【1887-1968】
フランス生まれの美術家。レディメイドや大ガラスといった作品によって、20世紀の現代アートに決定的な影響を与える。コンセプチュアル・アートなど現代美術の先駆けとなる作品を手がける。1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」で発表した『泉』(男性用小便器にR.Muttという署名をした作品)が物議を醸した。チェスの名手としても知られている。主要な作品はほとんどがルイーズ&ウォルター・アレンスバーグ夫妻のコレクションとなり、フィラデルフィア美術館に一括寄贈されて展示されている。1968年没。

 


寄稿者プロフィール
東琢磨(Takuma Higashi)

1964年広島県生まれ。音楽・文化批評家。広島市在住。著書として『ヒロシマ・ノワール』(インパクト出版会、2014年)、『ヒロシマ独立論』(青土社、2007)、『違和感感受装置』(冬弓社、2004)、『全-世界音楽論』(青土社、2003)など多数。月曜社から『忘却の記憶 広島』を10月に発刊。