目/耳/手/をつなぐ〈触る〉アート
21世紀版「耳なし芳一」
〈目に見えないもの〉を描く絵本
今、絵本を作っている。いや、正確には作ろうとしているというべきだろうか。これまで僕は日本史・文化人類学の研究者、あるいは視覚障害の当事者という立場で、単著・編著を刊行してきた。拙著が売れるか売れないかは二の次として、専門書・一般書など、本作りの楽しさはそれなりに知っているつもりである。そんな僕がなぜ絵本に挑戦しようと思ったのか。それは、コロナ禍に関連する昨今の社会情勢に起因している。
絵本のテーマとして僕が選んだのは「耳なし芳一」である。「耳なし芳一」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「怪談」に収録された作品で、発表から100年以上が経過した今日でも、多くの人に親しまれている。おそらく大半の方は、目の見えない芳一が、平家の怨霊に耳を引きちぎられてしまうかわいそうな話という印象をお持ちなのではなかろうか。じつは、耳を失った芳一は、琵琶法師として世間の注目を集め、お金持ちになるというのがこの作品の結末である。〈お金持ち=幸福〉と単純に考えていいかどうかはさておき、芳一が聴衆に支持される著名な琵琶法師へと成長したのは間違いない。耳を切り取られるシーンがあまりにも鮮烈で、その後の芳一がどうなったのかを知らない(忘れてしまう)人が多いのは残念である。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大は、人類にさまざまな影響をもたらした。ようやく緊急事態宣言が解除され、僕たちは普段の生活に復帰しつつあるが、随所で〈3密〉を避けることが求められている。新しい生活様式とは、人や物にさわらない・さわらせない〈拒触症〉なのだと感じる。僕はコロナウイルスそのものの感染拡大よりも、〈拒触症〉が蔓延することに危機感を抱いている。
なぜ人類は新型コロナウイルスをこれほど恐れるのか。いうまでもなく、それはウイルスが目に見えない存在だからである。近代以降、人類は〈目に見えないものを見えるようにすること〉が進歩だと信じてきた。近代化のキーワードは〈可視化〉である。多種多様な事物を目に見える形にしたいという願望が、人類の発展を支えてきたのは確かだろう。一方、〈近代化=可視化〉の道を邁進する人類が、たくさんのものを見落とし、見捨ててきたのも事実である。20世紀初頭、ハーンが「怪談」を通じて、目に見えないものの価値を強調したのはきわめて意義深い。〈可視化の過程で、大切なものを見忘れているのではないですか〉。これが、日清戦争から日露戦争へと突き進む近代日本に対するハーンからの問いかけだった。
〈目に見えるもののみが正しい〉〈不可視の心霊現象などあり得ない〉。このように決めつける現代人にとって、目に見えないコロナウイルスは恐怖の対象である。エレベーターのボタンやドアノブには直接触れない、家族・友人との食事では対面を避け、横並びで着席する……。人間が万物との触れ合い(相互接触)の中で育まれてきたことを軽視する昨今の〈拒触症〉の流行は、明らかに過剰反応である。目に見えないウイルスへの過度の恐れは、はたしていつまで続くのか。
芳一は平家の怨霊、すなわち目に見えないものと自由に話をすることができた。では、芳一が21世紀の現代にタイムトラベルしてきたら、彼は僕たちに何を語るのだろう。芳一はコロナウイルスを恐れることなく、目に見えぬ物・者とごく自然に共生できるに違いない。〈人類よ、芳一的なるものを取り戻せ〉。こんなメッセージが僕の体内から聞こえてくる。この声に従って、絵本を作ってみよう。文字・言葉を積み上げて自己の内面世界を表現する著作もいいが、あえて今回は選び抜かれた単語、研ぎ澄まされた短文で勝負したい。目に見える絵を媒介として、どうやって、どこまで目に見えないものにアプローチできるのか。そして、その目に見えないものを描く絵本の作者が、全盲の僕であるというのもおもしろい。こんな思いで、先が見えない絵本作りを楽しんでいる。
〈琵琶なし芳一〉がやってくる!
耳を失うことによって、なぜ芳一は琵琶法師として成功したのか。耳はなくなっても、音を感知する穴は残っている。芳一は、耳ではなく、身体の毛穴で音を聴く手段を身につけたのではないかと僕は考える。視覚は目、聴覚は耳に限定されるが、触覚は全身に分布しているのが特徴である。平家の怨霊は、芳一が〈音にさわる〉感覚に目覚めるきっかけを与えたともいえる。以下に、名人になるまでの芳一の成長のプロセスをまとめてみよう。
①一次元の芳一:目の見えない芳一は、ひたすら自身の内面、心を見つめ、自問自答を繰り返す。〈どうして、自分は目が見えないのか〉と悩んだこともあっただろう。〈目が使えないのなら、耳がある〉〈琵琶が上手になれば、音楽の道で生きていける〉。芳一は視覚以外の感覚を総動員して、自分を鍛える修行に励んだ。
②二次元の芳一:琵琶法師となった芳一は、やがて聴き手を意識するようになる。琵琶の演奏、語りを聴いて、褒めてくれる人がいなければ、芳一は名人にはなれない。彼は、聴き手を感動させる琵琶法師になるために努力を続ける。感動とは、〈感じて動く〉と書く。芳一の琵琶を聴く人々は、実際に「平家物語」の登場人物に会ったことはなく、合戦の現場を見たこともない。だが、彼らは芳一とともにさまざまな物語の場面に接し、喜怒哀楽を感じていた。じっと座って静かに琵琶に耳を傾ける人々の心の中では、平清盛や源義経、美しい女房たちがいきいきと動いている。耳を切り取られる直前の芳一は、多数の聴き手を〈感じて動く〉物語に引き込む優れた語り手だった。
③三次元の芳一:二次元の芳一は、語る人と聴く人、音と耳のように、者と者、者と物を一対一で結び付けていた。全身で見て、全身で聴くことができるようになるのが三次元の芳一である。彼の演奏と語りは、天・地につながり、立体的な広がりと深さを獲得したともいえるだろう。聴く人ばかりではなく、森羅万象、宇宙を包み込むような音・声の響きが、芳一の身体から生まれた。ハーンが伝えたかったのは、耳を失ったかわいそうな芳一像ではない。芳一は耳へのこだわりを捨てることによって、新たな芸能の境地に至るのである。
僕は、文字どおり〈禍転じて福と為す〉精神力を〈芳一力〉と名付けたい。コロナ禍による〈拒触症〉から脱却するために、僕たちが保持すべきなのは〈芳一力〉である。偉大なハーンの驥尾に付して、僕が構想する絵本では、四次元の芳一を描きたいと願っている。もともと、人類は芳一的なるものを持っていた。それは、何にでも手を伸ばし、貪欲にさわる幼児の行動、もしくは濃厚接触を常とするいわゆる〈未開〉人の暮らしを観察すれば、よくわかる。
近代化は人類から〈芳一力〉を奪ってしまった。逆説的な言い方をすれば、一連のコロナ禍は、人類が〈芳一力〉の意義を確認・実感する契機になると僕は信じている。さわらない・さわらせない社会通念の流布により、必然的に僕たちは、そもそもさわるとはどんな意味を持っているのかという根本的な問いに立ち返ることになった。だからこそ、「耳なし芳一」は再評価されるべきなのである。
今回、僕が計画している絵本では、盛り上げ印刷を用いて触図を多数掲載する。平家の怨霊はもちろん、木々のざわめき、川のせせらぎ、鳥や虫の鳴き声など、目に見えないものに触れることができる絵本をめざしている。21世紀の芳一は、琵琶を捨てて身軽になる。彼は琵琶の代わりに新しい楽器を手に入れる。それは僕たちの身体である。そう、芳一は今を生きる僕たちの身体の中にいる。彼は僕たちの毛穴を優しくノックする。四次元の芸能者、〈琵琶なし芳一〉が、接触と触発の感動を人類に巻き起こすことを期待したい。さあ、体内の芳一と対話しつつ、〈拒触症〉の特効薬となる〈さわる絵本〉を早く完成させよう。〈祟り〉(禍)を〈当たり〉(福)に転換した芳一の力強い声が聞こえる。さわらぬ神に当たりなし!
寄稿者プロフィール
広瀬浩二郎(Koujirou Hirose)
自称〈座頭市流フィールドワーカー〉。1967年、東京都生まれ。13歳の時に失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。2000年、同大学院にて文学博士号取得。専門は日本宗教史、触文化論。01年より国立民族学博物館に勤務。現在はグローバル現象研究部・准教授。〈触〉をテーマとする各種イヴェントを全国で企画・実施している。最新刊の「触常者として生きる」(伏流社)など、著書多数。