(左から)渡邉浩一郎、小山景子
83年頃

90年、31歳で亡くなった音楽家・渡邉浩一郎。彼が遺した膨大な音源を有志が整理したCD『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』(91年発売、2013年新装再発)に続く作品『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』が2021年12月15日(水)にリリースされる。これを機に、2つの記事をお届けする。今回は、先に公開されたGESO氏(第五列)のインタビューに続き、京都から故郷・東京に戻った渡邉浩一郎と交流のあった小山景子氏に、81年以降の話を訊いた。本取材に際し、鈴木健雄氏とGESO氏に多くの情報提供を頂きました。深謝します。

渡邉浩一郎 『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』 SUPER FUJI(2021)

 

83年9月17日、東京・日比谷野外音楽堂〈天国注射の昼 Vol. 5〉で

Vedda Music Workshop、天国注射の昼……80年代前半、東京のニューウェイブ

――渡邉浩一郎さんに会ったのは、いつ頃だったのでしょう。

「私が浩一郎に会ったのは、81年の夏以降だったと思います。具体的にどこなのかは、覚えていません。当時我々は、ひとりひとりと出会うという感じではなくて、常にゆるい集合体として蠢いており、どこか音を出せる場所に行くと、その時々で知り合いがいる、という状態でした。

浩一郎は、81年までは京都でウルトラ・ビデなどで活動していて、この年に東京の実家に戻ったので、それで、東京のシーンで見かけるようになりました」

『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』トレーラー

――小山さん自身はどのような音楽活動を始めていたのでしょうか。

「80年頃から、(現『MARQUEE』の母体である)プログレ雑誌『MARQUEE MOON』の編集や翻訳をやったり、竹田賢一さん率いるVedda Music Workshop※に参加したりしていました。大学内、学外で主に同年代の学生の友人と、音楽に関連する活動を始めていました。

81年の冬くらいから、代沢にあった私の広めのアパートが皆のたまり場のようになっていて、浩一郎も他の友達と頻繁に来るようになりました。具体的には、Vedda Music Workshopで参加者として会ったのかもしれません。

浩一郎が私に注目したのは、私のデモテープが彼の目に留まったからだと思います。それを誰よりも褒めてくれたのが、浩一郎でした。手紙をくれました」

※編集部注 ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ。ジャズやロック、現代音楽の評論、大正琴の即興演奏、反ポップバンド〈A-Musik〉の主宰などで知られる竹田賢一による集団即興演奏のワークショップ。79~83年頃に活動。小山景子と渡邊浩一郎のほか、灰野敬二、向井千惠、大里俊晴、霜田誠二、高橋鮎生、鈴木健雄、第五列のメンバーらその都度異なる演奏者が参加した。詳しくは小山のブログを参照

――81年、特にニューウェイブが目まぐるしく刺激的なときでした。

「〈天国注射の昼※1〉の1回目(8月15日)があった年でもあり、シーンもかなり成熟してきていました。京都ではウルトラ・ビデの堀田(吉範)さんと親しかった浩一郎は、東京のシーンで、工藤冬里さんや、第五列、非常階段などと出会い、交友が広がったと思います。このときの〈天注〉の〈まだ※2〉での浩一郎のバイオリンは、秀逸だったと言われています」

※1 編集部注:高杉弾や山崎春美らによる雑誌「HEAVEN」の創刊記念イベントとして80年6月に開催されたイベント〈天国注射の夜〉が発展、シリーズ化したコンサート。81年までに5回開催され、タコ、大里俊晴、工藤冬里、じゃがたら、町田町蔵(康)、ヒカシュー、THE FOOLS、GAUZE、突然段ボール、コクシネル、A-Musik、グンジョーガクレヨンらが出演。その後、2000年代にも3回開催された
※2 編集部注:〈まだ〉〈ひまご〉など、渡邉浩一郎のユニットについては、GESOのインタビューの編集部注を参照

Vedda Music Workshopの〈天国注射の昼 Vol. 5〉でのパフォーマンス

 

81年頃

我々は離散集合する境界線のはっきりしないアメーバのような集合体だった

――渡邉浩一郎さんはどういった人とセッションをしていたのでしょうか。

「それは、CD(『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』)に収録されているとおり、多くの人々と、いろんな形でやっていたので、数が多すぎて挙げきれないくらいですが、工藤冬里さん、後にマヘル・シャラル・ハシュ・バズのエンジニアをやっていたテリー(新井輝久)、金田一(安民)さん、鈴木健雄さん(Vedda Music Workshop)と特に気が合っていたかもしれません。GESO君(第五列)とも仲が良く、よく私のアパートに来て、ありとあらゆる音楽を聴いて、楽しく過ごしました。アパートの近所のおばさん達からは、怪しい若者が出入りする危険な住人と思われていました。

普通のバンドであれば、わりと閉鎖的な固定メンバーであって、さほど動きはない中で音楽性を詰めていくものだと思いますが、我々の活動は、若さゆえのフットワークの軽さもあったのでしょう、沢山の人が居て、その中で自由に気まぐれに組み合わせて、毎回違った形でライブを行っていたのです」

――そこに集った皆さん、特に渡邉さんは、音楽やその他の趣味はどんなものだったのでしょう。

「みんなとても博識で、私は勉強になりましたが、浩一郎はオールジャンル。プログレ、歌謡曲、中でもクレイジーキャッツが大好きでね、シャンソン好きで、特にレオ・フェレの『悪の華(Les Fleurs Du Mal)』(1957年)が大好きでしたね。映画音楽では堀田さんの影響が大きかったですね。

また現代音楽も、そして映画も詳しかった。マヤ・デレンの映画が大好きで、彼のバンド〈午後の網目〉はそこから名前をとったようです。他にもカスパー・ハウザー、(ヴェルナー・)ヘルツォークなど。当時はDVDはもちろんビデオなど無かったので、大勢で待ち合せて神田あたりまで映画を観に行き、帰りは飲んで、語り合いました」

――そういった交友関係は、ずっと続いたのでしょうか?

「82年には、吉祥寺にライブハウス〈Gatty(ギャティ)〉が出来たので、さらに頻繁に小規模なライブが出来るようになりました。6月には中野のテレプシコールで、フェスティバルのような大勢のメンバーによるセッション大会がありました。

浩一郎が恒常的に参加していたのは、マヘル、まだ、ひまご等ですが、他にもほんとうに大勢の人と不定期に、やっていました。先ほど言ったとおり、我々はアメーバのように正体なく離散集合する境界線のはっきりしない集合体だったのです。法政大学の学館ホールで行われ、浩一郎も出演した、82年12月のコーネリアス・カーデュー追悼ライブは、それらのメンバーが一堂に会し、ひとつのシンボルとなったかもしれません」

 

81年頃

どっちつかずの私の音楽を浩一郎は評価してくれた

――その後何か、変化のようなものはありましたか? その頃、小山さんは、KORGのポリフォニックシンセイサイザーや4トラックの多重録音レコーダーを買って1人で録音を始めた、とCD『記憶の運河』※(2012年)のライナーノーツにありますね。

※編集部注 小山景子が85~90年に録音した楽曲集。 94年に〈小山景子/きつねのよめいり〉名義のLP『記憶の水の運河』としてリリースされ、2012年にボーナストラックを追加して『記憶の運河』としてCD化された

「はい、まさにそのシンセサイザーを使って作ったデモテープが、現在リイシューされている『記憶の運河』に収録されている多くの曲の最初のバージョンです。そのデモテープを聴いて、浩一郎が、私の周囲でも一番、褒めて認めてくれました。

小山景子の2012年作『記憶の運河』収録曲“黒い涙”“Reckless Love”

当時、私はプログレとニューウェイブを混ぜたようなことをやっていて、そんな様式は世の中に無かったので、認めてくれる人は、あまり居ませんでした。どっちつかずのコウモリさんのような存在でしたが、前例にとらわれることなく評価してくれたのが、浩一郎をはじめごく一部の友人でした。ジャンルにこだわらず様々な音楽を聴いている人達だったからだと思います。

みんな20歳から25歳くらいだったので、少しずつ成長し、83年になると、やや組織的な、大きな動きも出てきました。83年の夏には〈天注〉の2回目と3回目もあり、10月には〈反日アンデパンダン※〉が開催され、12月には竹田さんに連れられて京大西部講堂に行き、私は浩一郎のバイオリンとデュオで“再びのバビロン”と“コラル”を演奏しました。

83年12月31日、京都大学西部講堂での小山景子+渡邉浩一郎のパフォーマンス

彼は自分の好きなことや曲想にストレートで、自分のやりたいことを、自分と相性の良い人に、うまく伝えることが出来たと思う。一方で、京都時代の堀田氏のような、相方として最高の相手を、東京ではあまり見つけられていなかったように思います。冬里氏がわりと近かったとは思いますが」

※編集部注 83年10月23日、東京・町田の和光大学で開催されたイベント。A-Musik、Ché-SHIZU、ミントチョコレート(工藤冬里ら)、ジョン・ダンカンなどが出演。カセットブックも制作された

――渡邉さんは韓国に興味を持っていたと聞いています。

「あの頃は今と違って、韓国は文化的に隔たりのある国であり、浩一郎はそういう異郷に関心を持つところがあったと思います。韓国語を独学で勉強して、84年には、景子さんの“コラル”を翻訳したから、ぜひ韓国語で歌ってほしい、と言っていました。ネットのない時代なので、韓国の流行歌などもレコードで入手して研究していたと思います」

 

83年12月31日

変わらず純粋な存在だった浩一郎だけが取り残された

――渡邉さんとは、いつ頃から、さほど頻繁には会わなくなったのでしょうか?

「鬱病による睡眠薬依存で、浩一郎は入院し、皆でお見舞いに行きました。84年の2月のことです。同じ病院に草間彌生が入院してるんだ、という話を聞きました。まだこの年は、結構よく遊んではいたのですが、徐々に、皆が20代半ばを過ぎるにつれ、就職したり、他のバンドをやったり、私の場合はラクリモーザやきつねのよめいり※の活動が中心になったりして、以前のような親密さが失われていったようです。

それでも、84年5月には、〈まだ〉を西村卓也氏と浩一郎と3人で再結成、私はベースを借りて弾きました。写真もあります。

この年の12月13日、やはりカーデューの命日に、浩一郎をはじめ数人が集まって、50年後の2034年になったら、皆どこで何をしているかわからないが、もう一度会おう、という約束をし、記念のライブをやりました。何となく、これからみんな別れ別れになっていく、という予感があったからかもしれません。

その後も折に触れてライブで顔を合わせることはあったはずですが、20代後半になって、以前ほどの無謀さ、計算の無さが失われたのは事実です。

しかし以前と変わらぬ純粋な存在だった浩一郎には、孤独が訪れ、それが彼を追い詰めた一面は否めないと思うのです。誰が悪いというのでもなく、彼だけが取り残されたことを、当時は我々もあまりよくわかっていませんでした」

※編集部注 ラクリモーザ(Lacrymosa)は斎藤千尋を中心とするプログレッシブロック、チェンバーロックバンドで、小山景子は85年からボーカリストとして参加。きつねのよめいりは小山によるバンドで、85年から活動

――そして死後、作品をリリースすることになった動きとは、どういうものだったのでしょうか?

「死ぬ前に、浩一郎は、複数の旧友に連絡をしていましたが、多くは真剣に対応できなかった。そのことが心残りとなって、近親の者達で作品集を編纂する運びとなったのです。誰よりも尽力したのは、第五列のGESO氏で、彼は我々の浩一郎に対する〈心残り〉のようなものを、引き受けて、膨大な作業をこなしてくれました」

渡邉浩一郎 『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』 SUPER FUJI(1991, 2013)

91年作『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』トレーラー

 

80年代、黄金時代を走り抜けた愛すべきアンダーグラウンドの王子

――最後に、渡邉浩一郎とは、何だったのでしょうか?

「そうですね、80年代の前半、いわゆる日本のニューウェイブと言えども、〈西洋の猿真似〉をなかなか越えられなかった時代に、我々は〈世界のどこにも前例のないこと〉を見つけようとして錯雑し、迷走し、やがて自滅・自然消滅したひとつの事象です。渡邉浩一郎は、そのムーブメントの象徴のようなものとして、結果として浮かび上がったのではないかと思います。

彼は、ドラムもバイオリンもやりましたが、ソロバイオリンではなく、オーケストラで言えば第二バイオリン。多くのメンバーの演奏に耳を傾け、その中での自分の役割を様々に見つけ出していくという、そんな性質が、多くの人に愛されました。また、ソロ向きではなかったために、孤独に陥ると弱い部分があったかもしれません。バイオリンらしい派手な音色ではなく、老猫の鳴き声のような、わざとかすれさせた浩一郎の音色が、私はとても好きでした。

渡邉浩一郎は、80年代前半の我々の〈黄金時代〉を走り抜けた、愛すべきアンダーグラウンドの王子であると思います」

 


RELEASE INFORMATION

渡邉浩一郎 『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』 SUPER FUJI(2021)

リリース日:2021年12月15日(水)
品番:FJSP448
仕様:2枚組CD
価格:3,465円(税込)

TRACKLIST
CD-1『まだのアンチ・クライマックス音群+4』
1. やんやややん
2. 北国の二人
3. ソドムの市
4. 構内アナウンス
5. 不明
6. 不明
7. 不明
8. 不明
9. 不明
10. IT’S A RAINY DAY, SUNSHlNE GIRL(涙のラーメン・カルテット高円寺支部)
11. ひまごまだ(涙のラーメン・カルテット高円寺支部)
12. やんやややん(ひまご)
13. ヒポポタマス(まさこ・ほった・マルコ)

CD-2『ガレージセッション 1977』
1. 無題
2. 無題
3. 無題
4. 無題
5. 無題
6. 無題
7. 無題
8. 無題
9. やんやややん
10. やんやややん
11. やんやややん
12. やんやややん
13. やんやややん
14. やん やややん

[M1-8:ガレージセッション 1977]
[M9-14:やんやややんのいろいろ 1980-81]

 


PROFILE: 渡邉浩一郎
1959年、東京生まれ。76年、京都に単身転居、高校入学当初は8ミリ映画やスライド作りなど映像に興味を持つが、次第にジャーマンロックや現代音楽など実験的な音楽に傾倒していく。中学時代から始めたバイオリンや子供の頃から好きだった機械いじりが高じて自作したシンセサイザーで、78年頃から即興演奏や自宅録音を始め、また、〈まだ〉〈オリジナル・ウルトラ・ビデ〉などのバンドに加わる。82年、東京に戻って以後は、エレクトロニクスに加えドラムやユーフォニウムも演奏、多くのセッションやバンドに参加した。工藤冬里率いるマヘル・シャラル・ハシュ・バズは、その初期から参加し、最期に在籍したバンドでもある。90年8月、他界。