90年、31歳で亡くなった音楽家・渡邉浩一郎。彼が遺した膨大な音源を有志が整理したCD『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』(91年発売、2013年新装再発)に続く作品『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』が2021年12月15日(水)にリリースされる。これを機に、2つの記事をお届けする。今回は、先に公開されたGESO氏(第五列)のインタビューに続き、京都から故郷・東京に戻った渡邉浩一郎と交流のあった小山景子氏に、81年以降の話を訊いた。本取材に際し、鈴木健雄氏とGESO氏に多くの情報提供を頂きました。深謝します。
Vedda Music Workshop、天国注射の昼……80年代前半、東京のニューウェイブ
――渡邉浩一郎さんに会ったのは、いつ頃だったのでしょう。
「私が浩一郎に会ったのは、81年の夏以降だったと思います。具体的にどこなのかは、覚えていません。当時我々は、ひとりひとりと出会うという感じではなくて、常にゆるい集合体として蠢いており、どこか音を出せる場所に行くと、その時々で知り合いがいる、という状態でした。
浩一郎は、81年までは京都でウルトラ・ビデなどで活動していて、この年に東京の実家に戻ったので、それで、東京のシーンで見かけるようになりました」
――小山さん自身はどのような音楽活動を始めていたのでしょうか。
「80年頃から、(現『MARQUEE』の母体である)プログレ雑誌『MARQUEE MOON』の編集や翻訳をやったり、竹田賢一さん率いるVedda Music Workshop※に参加したりしていました。大学内、学外で主に同年代の学生の友人と、音楽に関連する活動を始めていました。
81年の冬くらいから、代沢にあった私の広めのアパートが皆のたまり場のようになっていて、浩一郎も他の友達と頻繁に来るようになりました。具体的には、Vedda Music Workshopで参加者として会ったのかもしれません。
浩一郎が私に注目したのは、私のデモテープが彼の目に留まったからだと思います。それを誰よりも褒めてくれたのが、浩一郎でした。手紙をくれました」
――81年、特にニューウェイブが目まぐるしく刺激的なときでした。
「〈天国注射の昼※1〉の1回目(8月15日)があった年でもあり、シーンもかなり成熟してきていました。京都ではウルトラ・ビデの堀田(吉範)さんと親しかった浩一郎は、東京のシーンで、工藤冬里さんや、第五列、非常階段などと出会い、交友が広がったと思います。このときの〈天注〉の〈まだ※2〉での浩一郎のバイオリンは、秀逸だったと言われています」