ジョン・デンヴァーには、驚くほどナンバーワンヒットが続いた。“Sunshine on My Shoulders”“Annie’s Song”“Thank God I’m a Country Boy”“I’m Sorry”はすべてチャートで1位になっている。また、3枚のアルバムがチャートで1位となり、デンヴァーは最終的には12枚のゴールドアルバムと4枚のプラチナアルバムを上梓。しかし、彼の成功はほぼアメリカ国内に限定される。ルックスも伝統的なハンサムとはいえず、彼の曲はカントリー、またはイージーリスニングに分類されることも多い。オーストラリアのシンガー、オリヴィア・ニュートン・ジョンが73年に“Take Me Home, Country Roads”を歌ったことでイギリス、日本でもヒットとなる。日本では、この曲はジブリ映画「耳をすませば」で使われたことでよく知られている。オリヴィア・ニュートン・ジョンは他にもデンヴァーのヒット曲“Fly Away”を歌い、テレビにも一緒に出演している。

オリヴィア・ニュートン・ジョンの73年作『Let Me Be There』収録曲“China Girl”

イギー・ポップにも同じように特別な友人、デヴィッド・ボウイがいた。デヴィッドはイギーをマネージメント会社に紹介し、アルバムをプロデュースし、コロムビアとの契約も取り付け、ここでイギーは彼の名作『Raw Power』(73年)を世に出すことになる。アルバムのカバーはホラー映画さながらのものだった。デヴィッドとイギーは良い友人関係を築き、イギーがのちにソロでRCAからデビューしアルバム『The Idiot』(77年)をリリースした際はほとんどの曲を共作し、ツアーにもキーボードとして参加した。このアルバムはイギリスではチャート30位、アメリカでも74位となる。その後デヴィッドが彼らの共作である“China Girl”をバージョン違いで演奏し、イギーはようやく経済的にも成功することに。また、デヴィッドとイギーは中毒となっていたドラッグからの脱却も共に行った。

デヴィッド・ボウイの83年作『Let’s Dance』収録曲“China Girl”

一部の音楽評論家がジョン・デンヴァーを見下していた間も、彼はそのポジティブなイメージと天然なユーモアのセンスでテレビの寵児だった。彼の毎年恒例の番組「Rocky Mountain Christmas」は、全盛期には6000万人が視聴。彼はテレビでスペシャルコンサートを行ったり、自分の番組をも持っていた。マペッツともチャリティを含むいくつかのプロジェクトを展開し、77年には映画「オー!ゴッド」で、ベテラン喜劇役者のジョージ・バーンズと共演も果たしている。

一方イギー・ポップは、パンクムーブメントに押し上げられ、マイナーなセレブとしての地位を確立。ディー・ディー・ラモーンズによると、彼らはそもそもイギーとストゥージスのファンが集まってバンドを結成したという(彼らの友達はみんなアンチだった)。セックス・ピストルズはイギーの“No Fun”をレコーディングしているし、ダムドやオーストラリアのラジオ・バードマンもイギーの初期の曲をカバーしている。彼はテレビには「ダイナ・ショア・ショー」以外にはほとんど出ず、「ダイナ・ショア・ショー」にもデヴィッド・ボウイと一緒だったから出た、という状況だった。

しかし、80年代になると潮目が変わってくる。すでに飽和状態だったのか、ジョン・デンヴァーの人気に陰りが見え始める。彼の82年のアルバム『Shadows of the Heart』はチャートでは39位、83年の『It’s About Time』は著名な友人たちが多く参加したにも関わらず61位までしか届かずに終わる。また、彼の忙しすぎる仕事の状況は妻、アニー・ミッチェル(彼のヒットソングである“Annie’s Song”のミューズだった)との結婚生活に悪影響を及ぼし、82年に離婚。その後、彼は彼女を喉に手にかけて窒息させようとしたとか、二人で使っていたベッドをチェーンソーでたたき切ったなどとまことしやかにささやかれた。デンヴァーは酒におぼれるようになり、飲酒運転で二度つかまっているが、二回目はポルシェで自ら木に突っ込んでいる。この飲酒問題のせいで、デンヴァーは飛行機パイロットのライセンスを取り消しとなった。飛ぶことが大好きで、自家用飛行機を所有し、非常に優秀なパイロットだった彼には大きな打撃となる。

反対に、イギーはようやく安定し始めていた。彼は映画「レポマン」のタイトルカットへの楽曲提供に始まり、数々の映画に音楽を提供。他のアーティストとのコラボレーションも開始、デビー・ハリー、坂本龍一やB-52のケイト・ピアーソンらと共演した(ケイトとの共作『Candy』はチャートのトップ40となる)。また、メジャーレーベルでアルバム制作を続け、アルバムの売り上げはそこそこだったものの、ライブでの人気は高く、世界ツアーを開催できるほどだった。83年には来日も果たしている。伝説によると、イギーは中野サンプラザで聴衆の中から一人の女性を引っ張り上げ、これが84年から98年の間に妻となり、彼の生活を支えた浅野スチだったという。