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 彼の死を契機にその作品を見直す、といった喪の作業に勤しむ気になれなかった僕だが、さすがに良心の呵責に耐えかね(?)、この文章を書くにあたり、たまたま手元にあった『JLG/JLG(邦題『JLG/自画像』)』だけは久しぶりに見ることにした。ゴダールは同作でアメリカの作家ウィリアム・フォークナーの言葉とされる、「過去は死んではいない。過去ですらない」を引用している。これももちろん、過去(原因)が以前にあり、その結果として現在がある、といった「因果関係」=「法則」からの分岐や逸脱で特徴づけられる「出来事」に関わる言葉であるだろう。ドゥルーズは、ゴダールも愛したはずのルイス・キャロルを題材に「68年」前後に執筆された別のテクストで、やはり「出来事、純粋な出来事」に狙いを定めており、それを「生成すること[=なること]の同時性」として説明している。「生成することの固有性は、現在を逃れることである。生成することが現在を逃れる限り、以前と以後、過去と未来の分離や区別を、生成することが背負いこむことはない」(『意味の論理学』)。

 周知のように、ゴダールには歴史の教科書とは似ても似つかぬ『映画史』なる連作があり、その死後に他人によって回収されることを待つまでもなく、生きながらにして自らを映画史のなかに置く離れ業に成功を収めていた。彼にとっての映画史は、「以前と以後、過去と未来の分離や区別」を度外視する「出来事」であり、「因果関係」=「法則」からの逸脱なのだ。「ひとつの出来事は、その行く手を妨害され、抑圧され、ついには回収され、裏切られるとしても、その出来事のなかには乗り越えがたい何かが含まれていることにかわりはないのである。それは時代遅れだ、と言う者は変節漢である。出来事自体は古くなろうとも、それは乗り越えられることはないのだ。出来事は可能性に開かれたものなのである。それは社会の深みや諸個人の内部に浸透していく」(「68年5月~」)。「出来事」は乗り越えることのできない何かを含み、それによって開かれた「可能性」は、「現在」を逃れ、「以前と以後、過去と未来の区別や分離」に意を介することなく僕らの「内部」に浸透し、一個人の死によって終止符が打たれることもない。ゴダールを「時代遅れ」であると言う者は「変節漢」である。

 普通はこうだ。死が訪れ、人は喪に服す。だが、なぜか私は逆だった。私はまず喪に服した。だが死はパリにもジュネーブ湖畔にも訪れなかった……。『JLG/JLG』の冒頭付近でゴダールはそう呟いている。彼の言葉はいつも魅力的で、だから僕らを惑わす罠でもあるだろうが、彼の死をもってこの言葉の読みの可能性が広がることも確かだろう。彼はまず喪に服し、その後に死が訪れた。ここでも「出来事」は、「以前と以後、過去と未来の分離や区別」から逸脱した時間を駆け抜ける。生前からすでに自分自身の手で映画史に登録された(喪に服した)ゴダール。そして彼の死(=出来事)は、映画史を「新たな可能領域を切り開く不安定な状態」に差し戻す。

 この文章をお読みになればわかるように、あらゆるゴダール論はゴダールに敗北する。それは僕が凡庸だからでは必ずしもなく、いかなる優れた書き手が挑んでも結果は同様なのだ。近著『ショットとは何か』で蓮實重彦は、あらゆる映画理論は映画に追いつけない、と発言しているが、そうした認識の正当性を最も明白に証明するのが、「純粋な出来事」としてのジャン=リュック・ゴダールなのだ。ゴダールについていくら書いても、彼の映画に勝つことはできず、その死を悼む言葉を書き連ねたところで、彼を映画史に回収することなどできない。「出来事」とは、誰も葬り去る手立てを持ち得ない、手に負えないものなのだ。だから僕らは今後もゴダールという「出来事」に何度でも遭遇し、打ちのめされることになるだろう。

 


ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)
1930年12月3日、医師の父と、フランスの裕福なブルジョワ家庭出身の母のもと、フランス・パリに生まれる。48年ソルボンヌ大学に進学した後、カルチエ・ラタンのシネマクラブに通いはじめ、シネマテークの常連となり、フランソワ・トリフォーやエリック・ロメールらと知り合う。52年から「カイエ・デュ・シネマ」誌に映画評を書くようになり、59年に「勝手にしやがれ」でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀監督賞)を受賞。〈ヌーヴェル・ヴァーグ〉の一員として頭角を現す。以来、その作風は世界の映画人に大きな影響を与えてきた。9月13日、91歳で死去。

 


寄稿者プロフィール
北小路隆志(きたこうじ・たかし)

映画批評家。京都芸術大学教授。新聞、雑誌、劇場パンフレットなどで映画批評を中心に執筆。著書に「王家的恋愛」、最近の共著に「エドワード・ヤン 再見/再考」、「アピチャッポン・ウィーラセクタン 光と記憶のアーティスト」、「ジャン=リュック・ゴダール(フィルムメーカー21)」などがあり、近刊の書籍で青山真治論も執筆している。