THE BEATNIKS『Exitemnetialist A Xie Xie』の頃の取材時に。撮影:村尾泰郎

世界一スマートでビター・スウィートなアーティスト

 「高橋幸宏が宇宙に帰ってしまいました」

 ラジオ番組「Daisy Holiday!」で、細野晴臣はそんな風にリスナーに語りかけた。その落ち着いた声を聞くと、ああ、そうなのか、と素直に納得した。番組内で細野晴臣は高橋幸宏のことを「世界一スマートなアーティスト」と語ったが、高橋幸宏は人生を通して自分のスタイルを貫き通した。シャープでしなやかなドラムの演奏、ダンディさと甘酸っぱさが入り混じった〈フーマンチュー唱法〉にも美意識を感じさせた。

 小学生の頃からドラムを始め、高校生の頃にはスタジオ・ミュージシャンとして活動していた高橋幸宏は、加藤和彦に誘われて72年にサディスティック・ミカ・バンドに加入。イギリスでツアーを行うなど海外でセンスを磨いた。そして、78年に細野晴臣に誘われてYMOを結成すると再び世界に飛び出す。洋楽に影響を受けてきた日本のロックが、逆に影響を与える存在になった時、高橋幸宏はその最前線にいた。そして、YMOのコスチュームをデザインするなど、音楽だけではなくヴィジュアル面でも才能を発揮。何よりもセンスが求められたテクノ/ニュー・ウェイヴの時代に水を得た魚のように活躍した。

 そんな高橋幸宏のそばには、加藤和彦、細野晴臣、坂本龍一など天才肌のミュージシャンがいて、高橋幸宏は彼らの強烈な個性を受け止める柔軟な感性と優れた技術を持っていた。そして、ドラマーらしく一歩引いたところから人間関係を見守り、様々なミュージシャンと交流した。ビートニクス、スケッチ・ショウ、pupa、METAFIVEなど、結成したユニット/バンドの多さに驚かされるが、細野晴臣と結成したスケッチ・ショウがきっかけになり、ヒューマン・オーディオ・スポンジ~YMOと段階的に復活したのは高橋の存在が大きかったはず。ワールド・ハピネスというフェスを立ち上げたことも忘れられない。高橋幸宏は音楽が生まれる場所を作る人だった。

 高橋幸宏がYMO以降に結成したユニットの中で重要なのは、ムーンライダーズの鈴木慶一と81年に結成して、30年以上も続いたザ・ビートニクスだ。2人は「弱い男」というイメージを打ち出しながらも、「世の中に怒りを感じた時にビートニクスは動き出す」と発言する反骨精神があった。取材した際、高橋幸宏は鈴木慶一との関係を「危険な時に一緒に逃げて、後で〈よかったね〉と言い合える仲」と微笑んだが、次第にアルバムに死を意識した曲が増えるようになったことについて尋ねた時は、「こういう曲を一緒に作れるのは慶一だけだから大切にしないとね」と語っていた。

 一方、鈴木慶一は高橋幸宏と曲作りをする際、喜怒哀楽の中で「哀」の感情がいちばん引き出される、と語っていたが、「ビター・スウィート(ほろ苦さ)」は高橋が生み出す音楽のエッセンスだ。高橋幸宏は自分の弱さを隠さず、それをユーモアに包んで音楽で表現した。だから、スタイルにこだわっていても気取った印象は与えなかった。サウンドはモダンで洗練されているが、60年代ポップスをベースにした曲は親しみやすくて、歌詞からは優しさや繊細さが伝わってくる。ストイックな美意識を感じさせながら、人懐っこくてロマンティックな歌。ふと星を見上げたくなるように、そんな歌が聴きたくなって耳を傾けてきた。

 きっと今も宇宙のどこかで、幸宏さんは歌っている。