ジャズピアニストの西山瞳さんによるメタル連載〈西山瞳の鋼鉄のジャズ女〉。第63回は、おなじみメタル出身のジャズプレイヤーへのインタビューをお届けします。今回登場してもらったのは、ドラマーの江藤良人さん。土岐英史さん、渡辺貞夫さん、綾戸智絵さん、大野雄二さん、日野皓正さん、山下洋輔さん、大西順子さんといったジャズ界の大物と共演してきた江藤さんは、実は〈ロック小僧〉なのだとか。HR/HMのルーツやキャリアについて、江藤さんにたっぷりと語ってもらいました。 *Mikiki編集部
メタル出身で、プロのジャズミュージシャンになった方へのインタビューシリーズ。今回は、ドラマー・江藤良人さんにお話を訊きました。
数々のバンドで、日本の第一線でプレイし、そのしなやかで豪胆なドラミングは、ジャズファンならずとも生で見れば魅了されること間違いなし。
まずは、ソロドラムをどうぞ。
江藤さんとは、今年2月に名古屋でのイベントライブで久々にご一緒して、その際にインタビューをお願いしました。
江藤さんは、なんと、高校時代にコージー・パウエルのクリニックを受けて、そこで叩いた映像が残っています。記事内で紹介しますので、コージーを入り口に、どんな経緯でジャズのプロドラマーになったのか、ぜひご覧下さい。
スコーピオンズ、ホワイトスネイク、アイアン・メイデン、X……
――ドラムに興味を持って始めたのは、いつ頃ですか?
「小学校に上がる前、ベンチャーズとか歌謡曲を聴いてたんだけど、特にリズムに惹かれて、テレビ番組でドラマーが後ろの高いところでアクション大きく叩いてるのを〈格好いいなあ、ああいうのがやりたいなあ〉って思って見てた。
ドラムを始めたのは、10歳ぐらい。近所でバンドをやってた人に、使い古したドラムセットを貰ったんだよね」
――最初に叩いた曲や真似した曲って、覚えていますか?
「ずっと聴いてたベンチャーズの曲とか、その当時流行ってたハードロックだね。
それこそ、このあたり(スコーピオンズ『Love At First Sting』(84年)とホワイトスネイク『Slide It In』(84年)のレコードを取り出す)。
こればっかり、朝から晩まで聴いてたよ。MTVとかで映像を観て、叩き方を真似したんだ。レコードを聴いて、どうやって手足をやっているのかなと試行錯誤して。この時は完全に自己流。そしたら新作でこれが出てさ(アイアン・メイデンの『Power Slave』(84年)を取り出す)」
――『Power Slave』は、最初はどういう印象だったんですか?
「びっくりしたね。普通の音楽は歌中心なのに、『Power Slave』は楽器の演奏主体で、ソロも間奏も長いし、〈なんじゃこれは〉みたいな。でもなんかほら、格好良いじゃない、ドラムもベースもバキバキで。ああいうのに惹かれたのかなあ」
――バンドはいつ頃から始めたんですか?
「コピーバンドを始めたのは、中学の終わりぐらいからかな。
自分は楽器を始めたのが早かったけど、育ったのが三重の鈴鹿で、そんなに早く楽器をやっている子が周りにいなくて。これから楽器を始めるって子ばっかりで、下手っぴなコピーで一緒にやってたけど、集まって一緒に音を出せるのが本当に楽しかった」
――高校ぐらいになると、本格的にバンドはしていましたか?
「うん、でも、コピーバンドよ。とにかく文化祭に出よう!っていう魂胆でさ、これをやったのよ(X『Vanishing Vision』(88年)のレコードを取り出す)」
――おお! 当時のレコードですか!?
「もちろんオリジナル盤。当時、鈴鹿の隣の津市にインディーズのレコードを扱っているマニアックなおじさんがいて、確かそこで買ったと思う。で、これは当時の『ロッキンf』の付録(紙の袋に入ったソノシートを取り出す)」
――ソノシートだ! 懐かしい! 綺麗に保管していらっしゃいますね。でも、周りのお友達って、Xの速い曲を弾けたんですか?
「ボロボロではあるけど、なんとかみんな弾いてたよ。ドラムは、これぐらいならがむしゃらにやればできると思って、頑張ってやってた。僕は最初からツーバスでやってたし。
もう一つX繋がりで、これが最初のシングル(シングルレコード“I’LL KILL YOU”(85年)と“オルガズム”(86年)を取り出す)」
――いいい!! (変な声が出る)こ、これは……。
「『Vanishing Vision』の後に買ったんだけど、これもオリジナル盤。パンクでもないし、ロックでもないし、不思議なバンドだと思ったよ。こういうのを文化祭でやってたね。
当時、同級生の連中はZIGGYとかUNICORNとかをやってて、HR/HMを演奏してる人はそんなにいなかったかな。まあ聴いてた人はもちろんいるけど、主流ではなかったかも」
――高校時代、洋楽のコピーバンドはしていたのですか?
「元々コージー・パウエルが好きだったからツーバスで叩いてたし、だから洋楽はずっと好きで、レインボーとかをやりたかったんだ。そういうのを好きそうな同級生を集めてコピーもやってたけど、ただやっぱり、歌える人がいない。楽器はなんとかなっても、リードボーカルを取れる人が、さすがにいなかったなあ」