解散コンサート〈ラスト・ワルツ〉、ロビーとリヴォンの決別
翌1976年の夏から2年ぶりのツアーが始まったが、リチャードの飲酒癖は更に悪化、リヴォンとリックも相変わらずドラッグに夢中、おまけにリチャードがツアー中にボート事故で頚椎を骨折してしまう。
この事故が引き金となり、ロビーはザ・バンドのツアー活動を終わらせることを決意した。「本当ならリチャードにはゆっくり治療する時間を与えるべきだった。でもツアーが続く限り、それは叶わなかった。それでだんだん、いったいいつまでこんな暮らしを続けなきゃならないんだろう、という気持ちになってきたんだ」。他のメンバー、特にリヴォンは最後まで反対したが、結論は変わらなかった。
ツアーの最終日、1976年11月25日、サンフランシスコのウインターランドでの公演が、彼らの最後のコンサートとして設定された。くしくも彼らがザ・バンドとしてのステージデビューを飾った場所。ここに、ボブ・ディランやロニー・ホーキンス、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェルなど、彼らが敬愛するミュージシャンを招き、華々しくフィナーレを迎える計画が立てられた。
かねてより映画界に関心のあったロビーは、このイベントをフィルムに収めるべくワーナー・ブラザース・レコードの社長、モ・オースティンに接触。マーティン・スコセッシがメガホンを取り、最後のコンサートは「ラスト・ワルツ」として映画化されることに。しかしロビーがこれらの動きを水面下で進めていたことがリヴォンの逆鱗に触れ、最後のコンサートはいつの間にか〈解散コンサート〉になり、ロビーとリヴォンは完全に決別することなる。


もしザ・バンドが解散しなかったら?
「ラスト・ワルツ」は音楽映画の金字塔となったが、もし当初の目論見どおり、ツアー活動のみをストップしスタジオワークを継続していた場合、ザ・バンドはどうなっていたのだろう。
キャピトルとの契約消化のため1977年にリリースされた『Islands』は、シャングリラで録音されたデモの寄せ集めだが、例えば1曲目の“Right As Rain”は、まるでスティーリー・ダンの“Deacon Blues”のような手触り。考えてみれば、ザ・バンドの持つロックの要素、リズム&ブルースの要素、そしてガース・ハドソンの卓越したシンセサイザー使いは、AORやクロスオーバーミュージックにおける重要なファクター。ひょっとしたら、もう一つのスティーリー・ダンとして再起する道もあったのかもしれない。

参考文献
バーニー・ホスキンズ(1994年)「流れ者のブルース ザ・バンド」大栄出版
ロビー・ロバートソン(2018年)「ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春」DU BOOKS
リヴォン・ヘルム(1998年)「ザ・バンド 軌跡」音楽之友社
ポール・マイヤーズ(2011年)「トッド・ラングレンのスタジオ黄金狂時代 魔法使いの創作技術」スペースシャワーネットワーク
クライブ・デイビス(1983年)「アメリカ、レコード界の内幕―元CBS社長クライブ・デイビスの告発」スイングジャーナル社
ミュージックライフ・クラブ(2020年)〈ザ・バンドのロビー・ロバートソン、故リヴォン・ヘルムとの確執について語る〉 https://www.musiclifeclub.com/news/20200526_04.html