(C)Shintaro Shiratori

 

ずうっと前を向いて走ってきた、小澤征爾の80歳(傘寿)を寿ぐ

 指揮者の小澤征爾が9月1日、傘寿(80歳)の誕生日を祝う。太平洋戦争に敗れた日本が奇跡の経済復興を実現し、高度成長へと向かう時代、小澤はトップランナーの1人として世界に羽ばたいた。

 旧満州国奉天市(現在の中国瀋陽市)で1935年に生まれた当時、歯科医だった父・開作は政治運動にのめり込み、旧関東軍作戦参謀の石原莞爾、板垣征四郎と親交を結んでいた。四兄弟の三男坊は両者の名前を1字ずつ、もらった。9月1日は1923年(大正12年)、首都圏が関東大震災に被災した日でもある。母・さくらは「友人や知人を多く失ったから、あなたの誕生日ばかりを喜んではいられない」といい、幼少時、派手なバースデーパーティーとは無縁だった。

 80歳のちょうど半分、40歳の誕生日には新宿にあった東京厚生年金会館大ホールで創立間もない新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮していた。アンサンブルTASHI(ピアノ=ピーター・ゼルキン、ヴァイオリン=アイダ・カヴァフィアン、チェロ=フレッド・シェリー、クラリネット=リチャード・ストルツマン)とともに武満徹のエフエム東京委嘱新作「カトレーン」の世界初演を成功させ、盛大な拍手に包まれた。

 今年の9月1日はキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)で、セイジ・オザワ松本フェスティバルと改名した音楽祭(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)の特別プログラム「マエストロ・オザワ80歳バースデー・コンサート」の興奮の渦の中心にいるはずだ。マルタ・アルゲリッチ(ピアニスト)、ドナルド・キーン(日本文学者)を友人代表とし、世界から駆けつけた音楽家に囲まれ、自らも指揮台に立つ。

 だがそこに、「80歳の老大家」「大御所」の重量感は奇妙なほど漂わない。「マエストロ(巨匠)オザワ」と呼ばれるようになったのも、極論すれば音楽祭の改称と前後してで、海外では若い世代の音楽家まで全員が一様に「セイジ」と、ファーストネームで呼びかけ、親愛の情を示してきた。2006年の帯状疱疹に始まり、食道がん、椎間板ヘルニアと7シーズンも続く闘病を強いられた結果、容姿の若々しさこそいささか後退してしまったが、「いつも先のことばかり考えてきた」という未来志向は寸分もたがわずに健在だ。富士重工業が提供したスクーターに日の丸の旗を立て、ヨーロッパへ「ボクの音楽武者修行」に出かけた日から1日も休みなく、前だけ向いて走ってきた気がする。

 「ピアノを習っていた小さいころ、東京・四谷の聖イグナチオ教会の中に入り、生まれて初めてパイプオルガンの音を聴いた。ペダルトーンという低音の連続が聖堂の中にガンガン鳴り響き、ぶっ飛んだ」「日比谷公会堂へNHK交響楽団を聴きに出かけた時はレオニード・クロイツァーだったか、指揮だけでなくピアノ独奏を兼ね、ベートーヴェンの『皇帝』協奏曲を演奏するのに驚いた。とりわけピアノの音に、やはりぶっ飛んだ」。幼い時期に体験した「生(なま)の素晴らしい音」の衝撃を原点に、生涯かけて西洋音楽の不思議に魅せられてきた。

 時代も小澤に味方した。10歳で終戦を迎えた時、東京は一面の焼け野原だった。楽壇に限らず、社会のあらゆる分野の世代交代は通常、先輩から後輩への「禅譲」か、後輩から先輩への「クーデター」のいずれかで実現する。だが当時、昨日までの指導者たちは戦争責任を問われ、続くべき世代の多くは戦地で命を落としていた。小澤や演劇の浅利慶太、文学の三島由紀夫らの周囲には譲る人も奪われる人も存在せず、若いクリエーターたちは才能ひとつでトップランナーに躍り出た。人呼んで「青天井世代」。後期高齢者と規定される75歳を過ぎても走り続けたのは、世代交代の発想回路がインプットされていないからだ。

 社会は青天井世代に日本の未来を託した。とりわけ年配の男性は、武力や権力ではない力で世界を制覇する可能性に満ちた若者たちへの支援を惜しまなかった。小澤にも実の父の開作以外に、たくさんの「父」や「兄」が存在する。まず桐朋学園の音楽部門の前身、子供のための音楽教室を立ち上げた指揮者・チェロ奏者の齋藤秀雄、後に水戸芸術館で小澤の前任の館長(初代)を務めた音楽評論家の吉田秀和らが、音楽家としての基本姿勢を小澤少年にたたき込んだ。指揮者として頭角を現し、国際楽壇へ打って出る前後には三井不動産の江戸英雄、サンケイグループの水野成夫、日興証券の遠山元一ら歴史に名を残す財界人が経済的な支援を買って出た。まずヨーロッパ、次にアメリカで成功した後は指揮者のシャルル・ミュンシュヘルベルト・フォン・カラヤンレナード・バーンスタインがこぞって小澤に目をかけた。世界のマエストロの一角を占めて以降もサイトウ・キネン・フェスティバルの立ち上げに大きくかかわった中村恒也(セイコーエプソン)、タングルウッド音楽祭の敷地内にセイジ・オザワ・ホールを寄付した大賀典雄(ソニー)……と、次から次に支援者が現れた。

 もちろん「世界のオザワなんて、俺は認めない。フルトヴェングラーより劣る」などと頑ななインテリ層もいたのだが、ひとたび小澤本人に会ってしまうと、大半が猫マタタビ状態に陥り、アンチがファンに転じてしまう。悪くいえば「オヤジたらし」「ジジ殺し」のヒューマンスキルにおける小澤の破格の器は政界の田中角栄、球界の長嶋茂雄と並び、日本の戦後の3大カリスマに数えられる。

 実はこの猫マタタビ系のカリスマ性は、1980年代半ばに以降に立ち上げたサイトウ・キネン・オーケストラ水戸室内管弦楽団、小澤征爾音楽塾、小澤国際室内楽アカデミーなど一連のライフワークの原動力にもなっている。老いも若きも男も女も、世界の演奏家が「大好きなセイジ」のために集まり、ともに音楽を奏でられる時間に特別な意味を見出している。

 サイトウ・キネン・オーケストラでは最初、小澤の指揮に全員が激しい気迫で食らいつき(タテ方向のコミュニケーション)、雄叫びの大音量を発する傾向が強かったけれども、約10年を経過したころから互いに音を聴き合う(ヨコ方向のコミュニケーション)ゆとりが生まれ、独自のサウンド・アイデンティティーを備えるに至った。長く「不得意」とされてきたオペラの指揮も、2002年にウィーン国立歌劇場音楽監督へ就く前後から目覚しく腕を上げ、以前ほど1から10まで克明に振らず、オーケストラや歌手の自発性に委ねる場面が増えた。

 古希(70歳)を過ぎれば過去の蓄積で守りに入っても良さそうなところ、オペラの分野でなお疾走を続ける姿に接し、「これからが楽しみだ」と期待した矢先、病で活動を大幅に制限されてしまったのは、本当に残念だった。それでも小澤は、前を見ることをやめなかった。2010年のサイトウ・キネン・フェスティバルでチャイコフスキーの「弦楽のためのセレナード」の第1楽章だけ、7分間を指揮する間、筆者は全身に鳥肌が立つのを覚えた。世界に雄飛しようと懸命だった若い日の気迫、病を通じて得た死生観がもたらす深い解釈の両面を備え、小澤が全く新しい境地へと足を踏み入れたことを即座に理解した。同じ年の暮れ、ニューヨークのカーネギーホールをサイトウ・キネン・オーケストラとともに訪れ、満身創痍の状態で指揮したブラームスの「交響曲第1番」、ベルリオーズの「幻想交響曲」、ブリテンの「戦争レクイエム」も鬼気迫る名演だった。

 今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでは、シェイクスピアの戯曲「から騒ぎ」に基づくベルリオーズの「ベアトリスとベネディクト」のピットに立ち、オペラの全曲上演に対応できるだけの体力回復を改めてアピールするつもりだった。残念ながら不慮の骨折によるキャンセルに至り、ボストン市内でこの作品を指揮した経験があるタングルウッド音楽祭指揮講習会の出身者、ギル・ローズが代役に招かれた。

 80歳を記念した旧譜の再発売にも、多くのオペラ全曲盤が含まれる。だが、一番肝心の作品がまだ、残っている。20世紀フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアン唯一のオペラで、小澤が1983年11月28日にパリ・オペラ座で世界初演した『アッシジの聖フランチェスコ』である。ケント・ナガノ指揮のCDも、インゴ・メッツマッハー指揮のDVDも存在するが、小澤の音源は世界初演時のライヴがかつて出ただけで、すでに廃盤だ。正規のセッション録音も、日本国内での全曲上演も見送られてきた。せっかく初演者が健在で、オペラも含む音楽祭を切り盛りしているのだから、何が何でも松本の地で再演を実現し、きちんとした記録を後世に残してほしい。小澤の先にはまだまだ、夢のプロジェクトがある。

 


小澤征爾(おざわ・せいじ)[1935- ]
日本を代表する指揮者。1935年中国のシャンヤン生まれ。幼いころからピアノを学び、桐朋学園で故・齋藤秀雄に指揮を学ぶ。59年ブザンソン指揮者コンクールで第1位となり、カラヤン、バーンスタインに師事。トロント、サンフランシスコの各交響楽団を経て、73年から02年までボストン交響楽団、タングルウッド音楽祭の音楽監督を務める。02年秋からはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。84年秋山和慶とともに恩師・齋藤秀雄を偲んでサイトウ・キネン・オーケストラを設立。2000年からは小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトを開始。13年4月より水戸芸術館館長兼同管弦楽団総監督を務める。


寄稿者プロフィール
池田卓夫(いけだ・たくお)
1958年生まれ。音楽ジャーナリスト。各種雑誌やプログラム、CD解説書などへの寄稿の他、コンサートやオペラの制作、司会、舞台スタッフ、コンクールの審査員も務める。2012年に福島県会津若松市で初演したオペラ「白虎」ではプロデュースに携わり、三菱UFJ芸術文化財団の「佐川吉男賞」を授かった。


LIVE INFORMATION
セイジ・オザワ 松本フェスティバル
ozawa-festival.com/
○8/23(日) ふれあいコンサートI 会場:ザ・ハーモニーホール
○8/24(月)、27(木)、29(土) ベルリオーズ:オペラ「ベアトリスとベネディクト」 会場:まつもと市民芸術館 主ホール
○8/28(金) Aプログラム-ハイドン:交響曲 第82番 ハ長調 Hob.I: 82「熊」/マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 会場:キッセイ文化ホール
○8/30(日) ふれあいコンサートII 会場:ザ・ハーモニーホール
○8/31(月) セイジ・オザワの2つの室内楽アカデミー スイスと奥志賀 会場:ザ・ハーモニーホール
○9/1(火) マエストロ・オザワ80歳バースデー・コンサート 会場:キッセイ文化ホール
○9/2(水) マティアス・ゲルネ リサイタル 会場:松本市音楽文化ホール 主ホール
○9/3(木) マーカス・ロバーツ・トリオ コンサート 会場:まつもと市民芸術館 主ホール
○9/6(日) Bプログラム-バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116/ブラームス:交響曲 第4番 ホ短調 作品98 会場:キッセイ文化ホール