©Shamil Tanna

イーノに耳をそばだてる

 ねえご存じ? ブライアン・イーノの次のアルバムって歌ものらしいわよ。ホント!? 前作『Lux』(2012年)はきれいなアンビエントだったのに、彼ってヒキダシ多いのね。あら、ご存知なかった!? 『Lux』は4年前だけど、そのあともアンダーワールドのカール・ハイドと共作アルバムを、それも2枚も出して、それは歌ものでも、ましてやアンビエントでもない、アフリカ音楽というかミニマルというか、その両方というか、そんなものを出したのは去年でしたっけ? 一昨年ですわよ。……そう、でも出したばかりなのに。彼が次にどこに足を踏み出すかは、イーノのみぞ知るってことね。それに歌ものといっても、『The Ship』はあなたがたのイメージする歌ものとはちょっとちがう。

 どうちがうのか。まず、最初期の、たとえば『Here Come The Warm Jets』(73年)、『Taking Tiger Mountain』(74年)のようなポップ~ロック(グラム)のフォーマットに則ったものではない。イーノがこの分野にふたたび創作意欲をかきたてられることは、ポップの要素が散佚してしまったいま、彼にとってもいささか手にあまることだろうし、ポップ・フィールドではすでにプロデューサーの地位が確立しており、伴奏者たることにアイデンティティの一端を見出してもいる。そもそも、21世紀のポップがシュミラークルをあらかじめ潜在させるなら、かつての彼の手法は現実に昇華されたと考えるべきで、それはすなわち、『Another Green World』(75年)から『Before And After Science』(77年)を境に、『Music For Airports』(78年)でアンビエントへ舵をきったイーノの履歴のウラの先見性を裏書きするものでもある。

 以後のイーノにとって、ポップさとはメロディのもたらす美学的な印象であり、形式いかんではないのだから、歌である必要もない。歌ものの定義は逆説的にここからひきだせるものだろうし、80年代にはじまり90年代に完成をみたこの傾向はグラデーションでサウンド<ノイズとつながってもいた。まことイーノの本領を発揮する場所でもあったともいえるのだが、彼の活動が表面的にでもポップであるのは間遠になった。2005年の『Another Day On Earth』に『Before And After Science』以来の歌ものとの謳い文句があったのも記憶にあたらしい。みずからの声を素材に、アンビエント、ポップ、フォーク、ダンスミュージックの方法を下地にした「歌」の数々は小品めいてもいたが、まるでパズルのピースのように、しかるべき場所におさまることで総体がひとつの像を結ぶだけでなく、楽曲おのおのが精緻な奥行きをもつ、イーノにしかなしえない至芸であり、なるほど28年ぶりの歌ものの惹句にもうなずけた。

 『The Ship』は『Another Day On Earth』と前作にあたるソロ名義のアンビエント作『Lux』、この2作の系譜に連なりながら、しかしその先を模索する一枚でもある。アルバムの21分におよぶ表題曲は、もとは3Dレコーディング技術を使った実験から生まれ、相互に連結したふたつのパートからなるという。モチーフになったのはあのタイタニック号の沈没事件であり、〈Ship〉とはタイタニックを指している。独立したふたつのパートが具体的になにを指すのかはわからないが、イーノはおそらく立体音響による空間の変化に、時間の経過そのものを聴く(あるいは聴かない)アンビエントと、似て非なる感覚をおぼえたのではないか。

 〈音による小説〉との『The Ship』にたいする作者のことばからは、あたかもオーディオ・ブック的な印象を受けるが、イーノのいう小説はおそらくドラマを意味しない。小説は本来、文字の羅列による単線的な方法だが、(〈まっとうな〉という但し書きはつくとしても)文学が空間であることはブランショの主著の書名をひきあいに出すまでもない自明なことであり、小説は筋書きではない。ある空間に生起する/しないことば=出来事の総体であり、そのとき、空間はアンチ・ドラマを志向し、作者と対立する。20世紀は、音楽にかぎらず、文学でもアートでも、作者とドラマを疑わざるをえなかった時代であり、その雛形は世紀のはじまりにでそろった。シュルレアリスムしかりダダしかり、フランスの印象派やウィーン楽派が擡頭する一方に未来派があった。

 イーノはタイタニックの事件(1912年4月)を、1914年から1918年にかけての第一次世界大戦の先ぶれとみている、と資料にある。「複数の帝国主義の傲慢さの衝突から生じた、文化の相違を超えた狂気の沙汰」であった第一次大戦は、群発的な内乱やその一世紀前のトルストイの書いたナポレオン戦争の騎兵戦主体の牧歌的なイメージとは真逆のテクノロジーが支配する大量殺戮時代の幕開けでもあった。イーノは技術の粋を集めた不沈艦=タイタニックの沈没と第一次大戦をかさねることで、そこにテクノロジーの暗部を透かしみている、と私は推察するのだが、海軍力こそが軍事力だった第一次大戦から、制空権の重要度が増した第二次大戦(1939~1945年)へ、テクノロジー(とネイション)が、フーコーになぞらえれば人口を廃棄しながら邁進した前世紀前半をも暗示していまいか。

 さらにそこから核とイデオロギー対立の時代を想起するのはたやすいし、そもそも冷戦構造そのものが第一次大戦の産物であり、それが瓦解した1989年、さらに現在の文化間戦争とも連綿とつながっている。つまり第一次大戦はグローバル時代の端緒を開いた、歴史的転換点であり、20世紀はここからはじまり、おそらく今世紀と入れ子状になりながら遍在しているのだ。