散らばった記憶の媒体

 私は縁もゆかりも全くないその作曲家武満徹のことを思うときに、何故か武満さんと呼んでしまう。それはきっと自分に少なからず影響を与えている(そして今も与え続けている)この作曲家に関するいくつかの個人的な記憶を持っているからだ。断片的な記憶……。

 

●はじめて買った武満さんの楽譜

 高校生の頃、作曲の〈勉強〉をしていた僕がはじめて買った武満さんの楽譜は何だっただろうか。ピアノソロ曲でいえば当時購入した一柳慧“PIANO MEDIA”、矢代秋雄“ピアノ小品集”や“ピアノソナタ”、坂本龍一“ぼく自身のために”、高橋悠治“光州、1980年5月”といった作品と一緒に(武満作品として)“PIANO DISTANCE”や“FOR AWAY”そして“遮られない沈黙”といった曲も購入している。特に「遮られない沈黙”はその時の自分の心に染みこんで来るようなイメージがあった。当時のインターネットなど全くない自分の情報網だとこの曲の由来やその作曲過程までは分からなかった訳だが、終始静謐な響きの曲のなかに時折聴こえてくる硬質な響き、終曲にだけある不思議な肌触りの違い、アンバランスな曲の配置(この曲は三曲一組なのだが何故か三曲目のみ極端に短い)、といったその解けない謎を秘めたまま終わるこの曲が好きだった。手元にあるこの曲の楽譜はひどく手垢にまみれている。

 

●武満さんを見かけたこと

 そういえば、幾度か武満さんを見かけたことがある。特に印象に残っているのが〈彩の国さいたま芸術劇場〉での映画の上映会に音楽評論家の秋山邦晴氏と登壇したのを観に行ったときのことだ。多分私が20代前半だったかと思うのでもう25年ほども前のことだ。その上映作品は何だったろうか〈他人の顔〉だったと思うがもう記憶は薄い。話の内容も忘れてしまっているのに不思議なことに武満さんの歩くスピード感だけは鮮明に記憶に残っている。終演後ロビーに出てみると武満さんも帰るところなのかまたはロビーにいた誰かの所に近寄っていくところなのかスーッと歩いておられた。自分との距離は10メートルほどだったろうか。記憶の中ではそのむしろ小柄な姿が何というか歩を一歩一歩踏みしめるという印象を全く与えないままスーッと移動しておられた。時がたち私は〈できればクジラのように優雅で、頑健な肉体を持ち、西も東もない海を泳ぎたい〉という武満さんの有名な言葉を知るのであるが、その時の武満さんはまるでその鯨のようにぶれることの無いしなやかな移動を地上において実現していたように思える。

 

●武満さんの筆跡

 武満さんの事を考えたときに何故かその自筆譜のことを思う。作曲家としては異例なほどの多くの著作物があるが、その多くの表紙だったり時には各章の扉等にその自筆譜がコラージュされて掲載されていることがある。武満さんも(特にオーケストラ作品において)その創作ノートを作っておられるようであるが、そこに書き込まれた音符のビジュアル的な美しさはその実際に楽器のよって響かされ耳に届く音(ソノリティー)とパラレルワールドを形成するかのように美しい。まだ総譜にする前の創作ノートにはうずたかく積まれた音の階層に一音一音楽器名がメモ書きされていて、それは最終的に時に60段にもなる五線譜に書き込まれた総譜を眺めるとき以上に〈武満さんの考えていること(=響き)〉をより強く感じる事が出来る。その総譜(いわゆる完成スコア)は建築に例えれば各部門に具体的な指示を出すための設計図であるが、その初期段階に於けるメモ書きは、作曲家の頭の中のまだ形にならない響きの最深層をスキャンもしくはトレースしたような物のように見えるのだ。

 おっと、たった三つの記憶の断片を書いただけで枚数がつきた。音楽の一つの機能として〈散らばった記憶の媒体になりうる〉ということがあると思う。さて武満さんの曲を何か聴こうか。

 


寄稿者プロフィール
中島ノブユキ(Nobuyuki Nakajima)

作曲家/ピアニストとして映画音楽~ジャズ~ポップス~広告音楽~クラシック等様々なフィールドで活動。菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、畠山美由紀らの作品に楽曲提供や編曲を提供。大河ドラマ「八重の桜」や映画「人間失格」「悼む人」の音楽を担当。近年はジェーン・バーキン ワールドツアー〈Via Japan〉及び〈Gainsbourg Symphonique〉に音楽監督(編曲/ピアニスト)として参加。また全曲のオーケストラ編曲を担当したジェーン・バーキン最新アルバム『Birkin / Gainsbourg: Le symphonique』が2017年3月、世界発売。ソロアルバム『エテパルマ』『散りゆく花』他。