音楽ライターの八木皓平が監修を務め、〈ポスト・クラシカル〉と〈インディー・クラシック〉 という2つのムーヴメントを柱に、21世紀以降のクラシック音楽をフィーチャーする連載〈Next For Classic〉。この第7回では、去る2月9日に急逝が報じられたアイスランド出身の作曲家、ヨハン・ヨハンソンの功績を振り返る。「ボーダーライン」や「メッセージ」などドゥニ・ヴィルヌーヴ作品で腕を揮った映画音楽家としての横顔を中心に、映像と音楽で化学反応を引き起こすことのできる稀有な芸術家であった故人へと追悼の意を捧ぐ。 * Mikiki編集部

(C)Jonatan Gretarsson / DG

 

映画音楽家、ヨハン・ヨハンソン

リスナーはいつだって、音楽家たちにとって迷惑極まりない、勝手な期待をしてしまう。ぼくもまた、そういった類いの期待をヨハン・ヨハンソンに抱いていた。ぼくは彼とドゥニ・ヴィルヌーヴに、バーナード・ハーマンとアルフレッド・ヒッチコックのような、ジョン・ウィリアムズとスティーヴン・スピルバーグのような、ハンス・ジマーとクリストファー・ノーランのような関係を築いてほしかったのだ。映画音楽家と映画監督のマジカルな関係性が、それぞれの才覚をブーストさせながら素晴らしい作品を作り上げるというロマンティックな関係性。「サイコ」(60年)の風呂場で殺人が起きる瞬間、「ジョーズ」(75年)でジョーズが迫ってくるシークエンス、「ダンケルク」(2017年)で物語内の音響と劇伴が共鳴し合うという実験性は、全て映像と音楽の相乗効果によってのみ起こりうる稀有なショックであり、ぼくはそういったショックを求めて映画を観続けているようなところがある。ヨハン・ヨハンソンとドゥニ・ヴィルヌーヴのタッグは、今挙げた映画音楽家と映画監督の美しい系譜に連なってくれると勝手に思い込んでいたが、もうそれは叶わない。

こんな書き出しをしておいてなんだが、ぼくがヨハン・ヨハンソンを知ったのは映画音楽家としての彼ではない。といっても、彼の初期のワークスである〈タッチ〉からのリリースでもなければ、アパラット・オルガン・カルテットでもなく、彼が主催していたレーベル〈キッチン・モーターズ〉でもない。〈4AD〉移籍後のワークスですらないのだ。レイキャビクのレーベル〈12トナー〉からリリースされた『Dis』(2004年)という作品だ。本作は、ほぼ同じメロディーを、曲ごとに変奏してゆくという不思議なアルバムで、彼の持っている音楽的なボキャブラリーを知ることができる佳作だ。ボーズ・オブ・カナダ的なダウンテンポの要素があれば、初期ムーム的なエレクトロニカもある。あれ、こんな真っすぐなバンド・アレンジもするんですね、という曲もあったかと思えば、現在まで繋がるようなポスト・クラシカル調のものまである。世間が彼に抱いているイメージとは真逆の、なんだか人懐こい温かみがある本作が、ぼくにとってのヨハン・ヨハンソンの出発点だった。彼がこの世を去ってからすぐに聴きたくなったのもこの作品だ。

2004年作『Dis』収録曲“Þynnkudagur”
 

とはいえ、ぼくは彼の真価は劇伴にこそあると思っていた。ソロ作品で自身の音楽的なヴィジョンを深化してゆく方向よりも、映像からインスパイアを受け、それとコラボレーションさせるような形で音楽的な実験性を追求する彼に夢中になった。それを決定的に自覚したのがヨハン・ヨハンソンとドゥニ・ヴィルヌーヴの仕事、特に「ボーダーライン」(2015年)と「メッセージ」(2016年)を観たときだ。作品解説など追悼文らしくないということは承知しているが、この二つの劇伴がどういうものだったかを知れば、ヨハン・ヨハンソンという映画音楽家の特徴が掴めるので、書こうと思う。