
残された我々がモヤモヤを晴らしたかったから『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』を作った
――そして90年、渡邉浩一郎さんは31歳で亡くなります。
「亡くなる2、3年前から、私的な事情もあって疎遠になっていましたが、共通の友人知人から状況はよく聞き及んでいました。毎日ワインボトルを最低2本空けるとか、数度自殺未遂を図ったというので、ヤバいなと心配していました。
でも、訃報を聞いたときは、過去の自暴自棄的な挙動から察しても、本気で死ぬ覚悟があった訳じゃなくて、〈もう取り立ててやりたいこともなくなったし、死んだら死んだでまぁいいや〉という投げ遣りな気分だったんだろうと直感しました。亡くなったのは〈たまたま自殺未遂に失敗した結果〉であろうと、今でもそう考えています。
わざわざ自殺しなくてもどうせ遅かれ早かれ皆死ぬんだから、もっと遊び続けて楽しめば良かったのに、もったいない……とも思います。余計なお世話ですが」
――遺された渡邉浩一郎さんのテープを編集し、CD『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』として発売した時のことを教えてください。
「コウイチロウは、友達それぞれの好みに合わせて、様々な音楽ジャンルのベスト盤カセットを編集してプレゼントするのが好きでしたが、自分のオリジナル作品集は、結局作らぬまま他界しました。
CD『アバヨ』を出すことにしたのは、そのブックレットに引用されている故・新井輝久※による制作呼び掛けチラシの文章に集約されていると思います。
数人の友人達の手で整理された彼のコレクションの中には、京都でのウルトラ・ビデ参加前後以来の演奏活動を記録したテープも残されていました。あまりにも一方的だった彼との別れに、彼の演奏を集めたCDをつくることで「まとめてアバヨ」を言いたいと思います。
つまり、我々残された連中がモヤモヤを晴らしたかったから、というのが正直な動機だと思います」
予期しなかった再評価
――CD発売後、しばらく経ってから思わぬところで話題となります。90年代後半のモンドミュージックのブームの中で、私もそこで知り慌てた次第です。
「(『アバヨ』は)元々、生前のコウイチロウを知っている人たちを対象にした限定300枚のメモリアルアルバムで、形見分けみたいなものだったから、彼を知らない人たちの反応については想定していなかったし、追加プレスや再発も考えていませんでした。
だから、『アバヨ』のリリースから7年も経って『ユリイカ 特集=解体する[音楽]』(98年3月号)に突然『アバヨ』を持ち上げる紹介記事が2つ(大友良英+永田一直+中原昌也の鼎談と、岸野雄一+虹釜太郎の対談)も載ったときには、今頃そんなことを言われても、と戸惑いました。〈今こそ聴くべき〉と言うのなら、お金を出して作ってくれよ、という気がしたものです。今思えばありがたいのですが」
――最後に、『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』と、この12月に発売となる『マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群』を改めて聴いてみて、いかがでしょうか。
「『アバヨ』は個々の有志が推した音源の寄せ集めで、一見雑然としていますが、実際は何度も試行錯誤を重ねて周到に構成した作品集です。他方、今回の2枚組は、1トラック割愛せざるを得なかった憾みはありますが、コウイチロウの意思をほぼ忠実に再現したもの、と考えます。
いずれについても〈客観的〉判断ができないのは、私に元々音楽的評価という観点から音楽を聴く習慣がないことと、CD化するに当たって聴き返し過ぎた所為だと思います。しかし、極私的にはどちらも〈とても良きもの〉であると思っています」

RELEASE INFORMATION
リリース日:2021年12月15日(水)
品番:FJSP448
仕様:2枚組CD
価格:3,465円(税込)
TRACKLIST
CD-1『まだのアンチ・クライマックス音群+4』
1. やんやややん
2. 北国の二人
3. ソドムの市
4. 構内アナウンス
5. 不明
6. 不明
7. 不明
8. 不明
9. 不明
10. IT’S A RAINY DAY, SUNSHlNE GIRL(涙のラーメン・カルテット高円寺支部)
11. ひまごまだ(涙のラーメン・カルテット高円寺支部)
12. やんやややん(ひまご)
13. ヒポポタマス(まさこ・ほった・マルコ)
CD-2『ガレージセッション 1977』
1. 無題
2. 無題
3. 無題
4. 無題
5. 無題
6. 無題
7. 無題
8. 無題
9. やんやややん
10. やんやややん
11. やんやややん
12. やんやややん
13. やんやややん
14. やん やややん
[M1-8:ガレージセッション 1977]
[M9-14:やんやややんのいろいろ 1980-81]

PROFILE: 渡邉浩一郎
1959年、東京生まれ。76年、京都に単身転居、高校入学当初は8ミリ映画やスライド作りなど映像に興味を持つが、次第にジャーマンロックや現代音楽など実験的な音楽に傾倒していく。中学時代から始めたバイオリンや子供の頃から好きだった機械いじりが高じて自作したシンセサイザーで、78年頃から即興演奏や自宅録音を始め、また、〈まだ〉〈オリジナル・ウルトラ・ビデ〉などのバンドに加わる。82年、東京に戻って以後は、エレクトロニクスに加えドラムやユーフォニウムも演奏、多くのセッションやバンドに参加した。工藤冬里率いるマヘル・シャラル・ハシュ・バズは、その初期から参加し、最期に在籍したバンドでもある。90年8月、他界。