ジョニ・ミッチェルを発見、CSN&Yからソロへ
居場所をなくしたクロスビーは、ピーター・トーク(モンキーズ)に借りた金で帆船を購入、放浪の旅に出る。海上でのリラックスした時間は、後にCSNで歌われる“Wooden Ships”など作曲面でのインスピレーションをクロスビーに与えたが、この旅での一番の収穫は、マイアミのコーヒーハウスでジョニ・ミッチェルを発見したことだろう。クロスビーはすぐにジョニをLAへ連れて帰り、デビュー作『Song To A Seagull』のプロデュースを手掛ける。もちろん、ジョニほどの才能をもってすれば世に出るのは時間の問題だったが、クロスビーが彼女を西海岸に導いていなかったら、フォークミュージックの様相は全く違ったものになっていたかもしれない。

ローレル・キャニオンに移ったジョニの新居は、あっという間にミュージシャンたちのたまり場になり、日毎セッションが繰り広げられていた。ある夜居合わせたクロスビーとスティーヴン・スティルス、グラハム・ナッシュの声が重なった瞬間、魔法のようなハーモニーが生まれた。クロスビー・スティルス&ナッシュは69年にデビューアルバムを発表。3人の作曲能力の高さとハーモニーが存分に発揮され大ヒットを記録した。クロスビー作曲の“Guinnevere”は変則的なチューニングや譜割りが印象的で、後にマイルス・デイヴィスによるカバーも発表されている。

それぞれがキャリアを重ねてきたメンバーだけあり、政治的意識や社会問題を受け入れる懐の深さがこのグループにはあった。ニール・ヤングを加えクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングとして発表された70年のシングル“Ohio”は、同年に発生したケント州立大学銃撃事件をテーマにしている。作詞作曲はヤングによるものだが、リハーサル中にクロスビーがヤングに見せた報道写真が制作の契機となっており、クロスビーは「音楽人生で最も良い仕事ができた曲」と述懐している。

CSN&Yはメンバー間の性格の不一致により解散と再集結を繰り返すようになり、所属するアトランティック・レコードの意向もありメンバーはソロ活動に専念することに。クロスビーは71年にソロデビュー作『If I Could Only Remember My Name』を発表した。バーズ時代の『Fifth Dimension』やCSN“Guinnevere”で表現してきたサイケデリックな音響感をより発展させ、ハーモニーやジャズの旋律への深い理解が充分に発揮された、現在でもファンの多いサイケフォークの金字塔となっている。
