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坂本龍一の存在を間近に感じる遥かなるサウンド
坂本龍一『12』という傑作

 坂本龍一の新作『12』は、前作『async』からほぼ6年ぶりとなる作品である。「遥かなるサウンド(Sound far beyond)」と題された李禹煥(リ・ウファン)によるドローイングをフロントカヴァーに配したこの作品は、これまでの坂本のどのアルバムとも異なる、非常にパーソナルなものであることが特徴だ。それは、〈あまりに好きすぎて、 誰にも聴かせたくない〉と作者本人に言わしめた『async』にも感じるものではあった。しかし、その言葉どおりに、なによりも、自分自身のために制作されたのではないかと思われる『async』は、それでも(あたりまえではあるが)発表を前提にオリジナル・アルバムとして制作が開始されたものだ。一方、この『12』では、作品の成り立ちによるところが大きいだろうが、必然的にそうした性質を帯びることになったと言えるかもしれない。すなわち、こうしてまとめられた12曲が、坂本の闘病生活の中で始められた営みによって生み出されたものであるということ。それは、坂本のコメントにもあるように、大きな手術をし、長期の入院をへて〈仮住まいの家〉に帰り、体力の回復してきた坂本が、ふとシンセサイザーに触れてみたことから始まった。〈何を作ろうなどという意識はなく、ただ「音」を浴びたかった。それによって体と心のダメージが少し癒される気がしたのだ〉(*)と書かれているように、それはおそらく発表を前提にしたものではなく、あくまでも自分自身の快復のための営みであったはずだ。しかし、その後それはいつしか習慣のようになり、〈折々に、何とはなしにシンセサイザーやピアノの鍵盤に触れ、日記を書くようにスケッチを録音していった〉(*)、それがこのすべての収録曲のタイトルが日付によって記述された『12』というアルバムに結実している。

坂本龍一 『12』 commmons(2023)

 リリースに先立って昨年12月に行なわれた配信によるコンサート〈Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022〉では、演奏の後、本作を全曲試聴する機会があった。コンサートは、すべての演目を通しで演奏するのではなく、1曲1曲が複数のカメラで収録され、編集によってひとつのコンサートに再構成されている。それは〈音を出すどころか音楽を聴く体力もなかった〉(*)という坂本の身体の状態によるものではあるのだが、しかし、そこには、1曲、1音へのより強い集中力を持った坂本の演奏があり、対する静寂とともに、ある緊張感が個別に収録されたものであることを意識させない、それぞれの演奏をコンサートとして一貫したものにしていたのが印象的だった。そうした、坂本の身に起こった個人的な事情が、音楽家をさらなる新境地へ踏み出させたということがあるにせよ、それはよほどの強い創作への希求がなければなしえないものであるにちがいない。

 おなじように、このアルバムも、たとえ収録曲が録音順(あるいは完成順だろうか)に配置されているとしても、作曲家が日々メモのように思いついた曲の断片を録音している、といった類のものではないことは一聴して了解できる。たとえ、それが坂本の日々の営みを集めた結果だとしても、そこには先の配信コンサートのような集中力を感じ取ることができる。唯一、日付順のルールからはずれている“20220304”がアルバムの最後に置かれているのは、楽曲=スケッチの性質によるものだろう。それは、『12』をアルバムとして構成するにあたって坂本が行なった数少ない作為であるようにも思われる。もちろん、気に入った12スケッチが選ばれているというように、収録されなかったスケッチもあるにせよ、収められた12のスケッチは、最終的にはZAKによるミックスダウンをへてはいるが、たしかに〈何も施さず、あえて生のまま提示〉(*)されている。その生々しい録音によって、プライヴェートな空間での坂本の創作を間近で凝視するような、どこか窃視的な不思議なリアリティがある。ドキュメンタリー映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」には、ニューヨークの自宅スタジオで演奏する坂本の姿があったが、それよりももっとずっと間近にある。音だからこそ可能になった近さなのかもしれない。それは、マイクがとらえた演奏中の環境音、椅子の軋みやペダルを踏む音、ピアノの音の背後に深くかけられたリヴァーブ、そして、なによりも、この作品をとおして、多くの時間聴こえてくる坂本の呼吸音によるものであろう。それは、時に前景化するように捕らえられ、坂本自身の身体をいやおうにも意識させられる。けして音の解像度が高いということではない。しかし、これだけ音楽家に肉薄した録音はあるだろうか。それはグールドの鼻歌ともちがう、坂本の存在が録音されながら作られているその音楽に先立っているような、主従の逆転したような印象さえ与える。はたして、呼吸音に載せられたピアノの旋律を聴いているのではないかと考えることはできるだろうか。それによって『12』は、ほかのどの作品にもない形で、坂本の存在が刻印されたものとなっているように思う。