新時代のジャズ・ガイド〈Jazz The New Chapter〉で旋風を巻き起こした気鋭の音楽評論家・柳樂光隆が、 人種/国籍/ジャンルなどの垣根を越境し、新たな現在進行形の音楽をクリエイトしようとしているミュージシャンに迫るインタヴュー連載「〈越境〉するプレイヤーたち」。紹介するのは、柳樂氏が日本人を中心に独自にセレクト/取材する〈いまもっとも気になる音楽家〉たちだ。第5回は、NYで活躍するBIGYUKIこと平野雅之が登場。バークリー音楽大学に在学中からセッション・プレイヤーとして活躍し、2015年にアメリカの「JAZZ TIMES」誌が行った読者投票の〈ベスト・シンセサイザー奏者〉部門では、ハービー・ハンコック、チック・コリア、ロバート・グラスパーに次いで4位に選出されている。そんなライジング・スターに柳樂氏みずからNYで行った、貴重な対面ロング・インタヴューをお届けしよう。 *Mikiki編集部
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あのQ・ティップがニュー・アルバムのレコーディングを開始したとアナウンスして、メンバーの集合写真を公開すると、そこにはカート・ローゼンウィンケルやKCベンジャミン、マーク・コレンバーグなど最先端のジャズ・ミュージシャンと共に、金髪の日本人が写っていた。日本での知名度はこれからかもしれないが、NYのジャズ関係者でBIGYUKIこと平野雅之のことを知らない者はいないだろう。
そんなBIGYUKIによる待望のファースト・アルバム『Greek Fire』がいよいよリリースされた。収録されているのは、ロバート・グラスパーが作り上げてきたネオ・ソウル経由のヒップホップ×ジャズとも違うし、マーク・ジュリアナのような人力テクノ路線とも一線を画したもの。ダブステップやトラップ、スクリューなど、2000年以降のアンダーグラウンドなダンス・ミュージックにおける要素を採り入れた、新しいライヴ・ミュージックの誕生に驚くだろう。参加メンバーも実力派揃いで、ジャック・ホワイトのバンドにも参加するダル・ジョーンズと、ジェイソン・リンドナー率いるナウVSナウにマーク・ジュリアナの後釜として加入し、エスペランサ・スポルディング『Emily's D+Evolution』(2016年)にも抜擢されたジャスティン・タイソンという2人のドラマーを軸に、グラスパーの盟友にしてケンドリック・ラマーの作品でも脚光を浴びたビラルや、〈グラスパー世代〉屈指のシンガーであるクリス・ターナーなどが集結している。
自身の作品のみならず、マーカス・ストリックランド『Nihil Novi』(2016年)、ベン・ウィリアムズ『Coming Of Age』(2015年)、マーク・ジュリアナ『My Life Starts Now』(2014年)といった現代ジャズを象徴するアルバムでプレイを披露する一方で、タリブ・クウェリ『Prisoner Of Conscious』(2013年)などヒップホップ/R&Bの重要作にも起用されたりと、本場NYで大活躍を見せるBIGYUKI。かのグラスパーも〈いちばんの注目株〉と賛辞を送る鍵盤奏者から、そのキャリアをとことん訊き出した。
バークリー在学中のエピソードと音楽性のルーツ
――BIGYUKIという名前の由来から訊かせてください。YUKIというあだ名を持つ日本人が2人いたんですよね?
「バークリー音大に金坂征広(かねさかゆきひろ)ってヤツがいたんですよ。あいつのあだ名がYUKIで、俺も雅之だからYUKIと呼ばれていて。それで最初は、俺が金髪だったから〈キンユキ〉と呼ばれていたんですけど、そのうち金坂のほうもわかりづらいという話になって、あいつは俺より背が低かったからチビユキになって、〈じゃ、お前はデカユキだ〉と。それでいまでも、俺はデカユキ=BIGYUKIなんです」
――もう一人のYUKIはいま何をやっているんでしょう?
「彼はボストンを拠点にして、monologという名義でアルバムを発表したり(紹介記事はこちら)、プロデューサーとしても活躍しているみたいですよ。アイツも相当トゲトゲしていて、バークリーに入ったときから現在のスタイルで、バキバキ弾いて踊らせたりとすごかったな。俺はもともとクラシックしかやってなかったから、当時はジャズが全然弾けなくてコンプレックスの塊だった。そこへチビユキがいたからかなり意識してましたね」
――バークリーでは何科だったんですか?
「パフォーマンス科でジャズ・ピアノを学びました。最初のうちはスウィング(の概念)も理解できてなかったんですけど、(ピアニストの)ケニー・バロンを聴いてから変わりましたね。彼はフレージングが完璧。そこから、スタン・ゲッツと一緒にやってる“Voyage”という曲を採譜したりするようになって」
――最初はトラディショナルなジャズを勉強していたんですね。現在のクロスオーヴァーなサウンドになったきっかけは?
「アメリカだと21歳になるまで未成年だから、お酒も呑めないしバーにも入れないんですよ。なので21歳になってから、ウォーリーズ・カフェというボストンでいちばん古いジャズ・クラブに通うようになりました。そこでは年中無休で生演奏が繰り広げられていて、バークリーやニュー・イングランド音楽院の学生が集まって日々ジャムってるわけですよ」
――へー、それで?
「俺がたまたまウォーリーズ・カフェに行ったときに、演奏していたレギュラー・バンドがサム・キニンジャー※1、マーク・ケリー※2、チャールズ・ヘインズ※3、デイヴィ・ネイサン※4の4人だったんですよ。ウォーリーズ・カフェは月曜日がブルース・ナイトで、火、水曜と日曜がファンク、木曜がラテンで、金、土がジャズ。僕が行ったのはファンク・ナイトの日だった。それで何の予備知識もなかったけど、4人の演奏にぶっ飛ばされて。“The Chicken”や“Chameleon”といった(セッションでは)ベタな曲に、この当時に流行っていた音を混ぜたり、グルーヴも新しい感じにしていたし、インタープレイの要素もあった。それまで自分が何をやりたいのかわからなかったんだけど、そのステージを観たときに〈これだ!〉って思いましたね」
※1 ソウライヴ/レタスのサックス奏者
※2 ルーツのベーシスト
※3 ミシェル・ンデゲオチェロやジェイソン・モランなどと共演しているドラマー
※4 クリスティーナ・アギレラやトニ・ブラクストンと共演しているピアニスト
――そのセッションはどんなサウンドだったんですか?
「当時はネオ・ソウルが流行っていたのもあって、ジル・スコットのライヴ盤『Experience: Jill Scott 826+』(2001年)の音やグルーヴを採り入れながら、キャノンボール・アダレイの“Mercy, Mercy, Mercy!”(作曲はジョー・ザヴィヌル)をプレイしたりしましたね。その時にチャールズ・ヘインズに話しかけたのがきっかけで、ウォーリーズに通うようになったんです。いつもMDプレイヤーを持参して、その場で録音しながら曲を覚えたり、ときどきシットイン(飛び入り参加)したりもして。そうこうしているうちに、俺と同世代の連中もレギュラーとして演奏するようになって、気付いたら自分もレギュラーになっていた、みたいな」
――そのウォーリーズで腕を磨きながら、音楽性も変わっていったと。
「そうですね、シンセを買って弾きはじめたのもウォーリーズがきっかけでした」
――シンセに関しては、どんなところから影響を受けました?
「バークリーでのクリニックをきっかけに、イエロージャケッツのマーカス・ベイラー(ドラムス)やラッセル・フィエンテ(キーボード)と知り合ったんですけど、ラッセルが持つ独特のハーモニーには影響を受けましたね」
――なるほど、他には?
「ゴスペルとの出会いは大きかったです。最初は古いチャーチに曲も知らないまま放り込まれて、それっぽいのが弾けるだけで全然通用しなかったんですけど、観にきていた人が気に入ってくれて、別のチャーチを紹介してくれたんですよ。そこでもチャールズ・ヘインズがミュージック・ディレクターを務めていて」
――チャールズ・ヘインズとの出会いが本当に大きかったんですね。
「そこは老舗のチャーチなんですけど、そこでチャールズと演奏するようになったのも大きな転換点でしたね。ゴスペルはすべての音楽のルーツだし、シーンも大きいんですよ。コンテンポラリー・ゴスペルって若い黒人ミュージシャンの憧れだから。大きなチャーチに入れば、サラリー制だから生活も安定するし、音楽性もすごく高い」
――やっぱりゴスペルを通っていたんですか。となると、キーボードでベースを弾くようになったきっかけもオルガンだった?
「そうですね、オルガン・ジャズです。もともとドクター・ロニー・スミスが好きで、『Live At Club Mozambique』(70年)は最高ですよね」
――カッコイイですよね。ブルー・ノートから去年リリースされた『Evolution』にはグラスパーも参加していて、あのアルバムもすごく良かった。
「俺はもともと、ピアノがヘタクソだったんですよ。それでもセッションに参加したいと思ったときに、ベーシストがみんな忙しそうだったから、自分でベース・ラインを弾いてみようかなと。それでスタンダードを弾くときにウォーキング(・ベース)っぽいのをやってみたりするうちに、それが楽しくなってきて。そういうテクを有効に使えるのがオルガン・ジャズだと気付いたときに、当時はソウライヴが流行っていたし、ラリー・ゴールディングスがピーター・バーンスタインやビル・スチュワートと一緒にやっていたトリオもめちゃくちゃ格好良かったんですよね。それもあって、自分で弾いてみようと考えたんです。最初は一人でアンサンブル・ルームを借りて、爆音で音楽を流しながら練習していました。それがシンセ・ベースを弾くようになったきっかけ」
――オルガン・トリオはベースの代わりにギターが入るのが通例なので、オルガンの人がベース・ラインも弾く場合が大半ですよね。それが現在のプレイスタイルに役立っていると。いつもピアノの上にシンセ・ベースを置いているのも、それがルーツにある?
「そうです。オルガンを弾いているヤツは当時少なかったから、隙間産業みたいな感じでギグに呼んでもらえるようになって。そういう流れで、友人の六角屋雄介や國田大輔と一緒に、Enigmatic Driveという変拍子だらけのプログレ・ジャズ・バンドを結成したんですけど、そのときのドラマーが、ウォーリーズでもセッションを一緒にやったリー・フィッシュという男で。そいつの家でリハをやってたら、リーの父親がシンセ・ベースを2台持っていたから、片方を100ドルで譲ってくれたんです。そのコルグSB100をいまでもメインで使っています」
――ドアーズも使ってましたよね。BIGYUKIさんといえば、シンセ・ベースの使い方も特徴的ですよね。普通はピアノを弾くとき、右手でメロディーを弾いて、左手でそのサポートをするものですけど、BIGYUKIさんの場合はブラッド・メルドーのように左右で別々のことをしている。
「そうですね、ハートはベーシストだから。俺は右手でピアノを弾きながら、左手でシンセのベースを奏でるといったコーディネーションが好きで、ハーモニーも全部コントロールできるから、バンド内での意思疎通が早いんですよ。何の準備もしていない状態で、ジャムって音楽を作り出すのが好きだったから」
――だから、セッション・ミュージシャンとして重宝されたんでしょうね。
「うんうん。あと、もう一つの転換点はドゥービー・パウエルかな。俺がボストンにいた頃に、『The Offspring』(2002年)という革新的なファースト・アルバムを発表したゴスペル・アーティストですね。全部ヤマハのモチーフを使っているんだけど、それがキーボーディストにとっては憧れの音色だったんですよ。ジャズ・ミュージシャンは興味なかったと思うけど、(ヒップホップなど)別のシーンでは話題になっていて。それで、俺もドゥービー・パウエルの音作りに超ハマって、チャーチを離れたところでも、チャールズ・ヘインズと一緒にトラック作りやプロダクション系の仕事をするようになったんです。そこから、ピアノ以外の音をどうやってアンサンブルに活かすのか考えるようになりました」
――演奏面だけではなく、プロデューサー的な視点でも考えるようになったと。
「そう。ヒップホップとか、ラジオでかかってたヒット曲も意識して聴くようになって。それまでは音大に通っていたからエリート意識もあったし、ポップ・ミュージックはダサいと思い込んでいたんですよ。でも、流行りの曲を聴くようになると、スタジオで作り込んだ音の魅力がわかるようになったし、シンセのスキルがだんだん身に付いてきて。レイヤーで音を重ねたり、ループを使ったりとか、ヒップホップやテクノに通じる考え方をするようになっていきましたね」
Q・ティップからマーク・ジュリアナまで、NYで培った共演歴
――ボストンからNYに移った経緯は?
「ボストンでの生活が居心地良くなりすぎて、お金は稼げるけど自分が小っちゃい池にいる大きな魚みたいに思えてきたんですよ。それでNYに渡ったんですけど、ビジーだし、パワーがすごいから、初めの1年間はまったく仕事がなかった(笑)」
――へー、BIGYUKIでもそんな時期があったんですね。
「そう、もう日本に帰ろうかなと思ったくらいで。でもその頃、ウィリアムズバーグにあるローズという実験的な音楽もできるライヴハウスで、バークリーの同期だった(トランぺッターの)イグモア・トーマスに誘われて、彼のバンドでギグをやることになって。そのとき、ドラムを叩いていたのが(『Greek Fire』にも参加している)ダル・ジョーンズだったんです」
――そうだったんですか。
「ダルはスラム・ヴィレッジやナズとも一緒にやっているドラマーで。いまはジャック・ホワイトのバンドで叩いていて、グラミーのパフォーマンスでもステージにいたような人。そんなダルと一緒に演奏したら、初セッションでいきなり意気投合したんですよ。それで次の日にすぐダルから連絡が来て、〈今日これからタリブ・クウェリのリハがあるから、良かったら来ない?〉って」
――その話ヤバイですね(笑)。
「何の準備もせずにキーボードを弾いたら、タリブとも仲良くなってギグで弾くのが決定したりとか。そんな感じで、ほぼ同時期にビラルとも知り合いました。彼とは特別なコネクションがあって、なんか一緒にやろうっていつも俺を呼んでくれる」
――ビラルとは付き合いも長いらしいですね。Q・ティップとはどんな感じで知り合ったんですか?
「知り合ったのはここ1年半くらいかな。KCベンジャミンと(ドラマーの)ルイス・ケイトが俺をリコメンドしてくれて、Q・ティップが連絡してくれたんです」
――それでQ・ティップの新作にも参加することになったんですよね。レコーディングはどんな感じでした?
「Q・ティップが自分でデモを用意していて、そのサンプルをバンド・メンバーに聴かせて〈これやってくれ〉みたいな感じ。彼にははっきりしたヴィジョンがあるし、(演奏の)出音も(ミックスした)最終的な音もカッコイイ。それに、制作チームも一流だから楽しいですよね」
――作り方はデヴィッド・ボウイの『★』とも近いのかもしれないですね。
「Q・ティップはプロデューサーだから、ドラムのパターンも自分で作ってますしね。ハットとフロア・タムを持ってきて、〈こういうビートをよろしく〉みたいな感じでマーク・コレンバーグに叩かせるんですよ。あいつはマシーンだから、叩くとすごいことになっていく。それを聴いて、Qティップのテンションがどんどん上がっていく。そういうふうにジャムった演奏を、膨大な時間レコーディングしているみたいです。俺も休憩時間にコードを弾いていたら、〈それ超カッコイイな、録ろう〉となったりしましたし。その録音したものを、最終的にまたチョップして作るんじゃないかな」
――実際に接してみて、Q・ティップはどんな人だと思いました?
「一緒にいると、過去のアチーヴメント(業績)を忘れてしまうような感じ。その瞬間に、目の前に見えているものに集中している。常にクリエイティヴな人ですね。ちなみに、ビラルは逆のタイプ。あの人は白紙で、いつも〈メチャクチャにしちゃえ〉って言うんだよね(笑)。それで本当にメチャクチャにすると、ビラルがそこに超カッコイイものを乗っけてくる。斜め上から来るというか。ビラルは天才ですね」
――ビラルの代わりがいない、特別な感じって何なんでしょうね。
「今年の2月だったかな、ビラルといつもと違う編成でギグしたんですよ。超自由でヤバかった。俺がイントロでかましてやろうと思って弾きまくったら、そこから10分近くみんなで自由にやって。そういうのを100%受け入れてくれるのがビラル。アイツと一緒にやっていると、すべての思い付きが音楽的に絡み合っていくような最高の瞬間があるんですよ。精神的に繋がる楽しさがある。そういう場を作れるのがビラルですね」
――だからビラルはジャズ・ミュージシャンからの信頼も厚いんですね。
「俺はビラルと付き合いだしてから、同世代の連中と少しずつ繋がりはじめたんですよ。ビラルはジャズとブラック・ミュージックの仲介役みたいなところもあるから。それでなんとなく同じイヴェントで顔を合わせるようになったのが、ベン・ウィリアムズ※1とジャスティン・ブラウン※2。あとは、ジェイソン・リンドナーとも知り合ってすぐに仲良くなったし、そこからマーク・ジュリアナとも一緒にやるようになった」
※1 2013年にパット・メセニーのユニティ・バンドの一員としてグラミー賞を受賞した気鋭のベーシスト
※2 アンブローズ・アキンムシーレやジェラルド・クレイトンのバンドや、フライング・ロータス『You’re Dead』(2014年)に参加しているドラマー
――マーク・ジュリアナのリーダー作『My Life Starts Now』にも参加していましたよね。出会ったきっかけは?
「全部横の繋がりだから、向こうから連絡があったんだったかな。マークは最高ですね、キャラもいいし、真面目で頭もキレる。ギグも何度か一緒にやってますよ」
――『Greek Fire』に参加しているジャスティン・タイソンは、ジェイソン・リンドナーのナウVSナウでも叩いてますよね。最近になって頻繁に名前を見かけるようになった印象です。
「彼もバークリーの出身で、父親がゴスペルの人で、いわゆるコンテンポラリー・ゴスペル系のドラマーですね。昔はゴスペルチョップス系のドラマーがフュージョンを叩いているような感じだったのが、あのエッジを持ったまま音楽の解釈が柔らかくなってきて、いまは独特のサウンドを生み出してますよね」
――そういえば、BIGYUKIさんはハーヴィー・メイソンとも一緒にやってますよね。(ハーヴィーのバンドにも参加している)マーク・ド・クライヴロウも〈BIGYUKIは最高、ニュー・ジェネレーションだね〉と言ってました。
「そっちのマークも友達ですね。そういえば、ハーヴィーのライヴでカマシ・ワシントンとも何度か一緒にやりましたよ。アイツは『鉄拳』が超上手いらしい(笑)。超ゲーマーで、俺よりもゲームに詳しかった」