関俊行が、台湾のさまざまな音楽カルチャーを紹介する連載〈台湾洋行〉。今回は、台湾で人気の高い日本人ミュージシャンによるジャズトリオ、東京中央線にインタビューしました。メンバーの3人は、客家フォークの大御所シンガー、林生祥のバンドへの参加でも知られています。もはや台湾が主たる拠点と言えそうな彼らに音楽家としての歩み、そして林生祥の何がすごいかを語ってもらいました。 *Mikiki編集部

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林生祥の車に同乗して

2019年の11月、僕は台北から南西80kmほどの位置にある都市、新竹へ向かっていた。バンにはフォークシンガーの林生祥(Lin Sheng Xiang)氏と、そのマネージャーのトーマス氏、林氏率いる〈生祥樂隊〉のメンバーとして活動する日本人ギタリストの大竹研氏が乗り合わせていた。生祥樂隊には大竹氏以外にも、ベースの早川徹氏、ドラムの福島紀明氏と、日本人メンバーが3人所属しており、彼ら3人はインストバンド〈東京中央線〉としても活動中だ。

林氏は台湾における客家フォークの巨匠とみなされており、金曲奨(台湾のグラミー賞)でのノミネート/受賞も多数。泰然として構えた、目力のある人で、初対面時はピリッと緊張感が走ったが、威圧感のようなものはなく、よく知らない日本人の存在に、単にそれほど気を取られていないという印象だった。その日は林氏と大竹氏のデュオで、新竹の音楽フェスに出演することになっており、林氏は集中力を高めていたのか、道中、言葉を発することはあまりなかった。

僕は、ひょんなことから林氏のマネージャーと繋がり、〈台湾への滞在期間中にライブがあればぜひ、観に行きたい〉と伝えたところ、この新竹のフェスをすすめられたのだ。だが、電車だけでは到底たどり着けない、山地のようなエリアで行われていることがわかり、ご厚意に甘えて同乗させていただいた。高速で1時間以上の道のりだったが、大竹氏と台湾の音楽についてあれこれと雑談を交わしているうちに、気づけば新竹に入っていた。

ちなみに〈客家〉とは多民族社会、台湾におけるエスニック集団の1つで、明朝末期から清朝初期にかけて台湾に渡ってきた韓民族の一種。新竹は県の人口の80%以上が客家民族とされており、客家文化の総本山と言ってもいいエリアだ。会場は活気に溢れ、林氏は多くの人から声をかけられていて、その人気のほどが窺い知れた。

その日のステージは、遠くの山並みまで一望できる、見晴らしのいいテラスのような場所で、演奏前からすでに多くの観客が集まっていた。遠くの空が赤く染まり、辺りが暗くなる頃、演奏が始まる。僕は林氏のアルバムをすでに何枚か愛聴していたものの、ライブを観るのは初めてだった。そして、その演奏力の高さや安定感、抑制のきいたソウルフルな歌唱にグッと引き込まれた。そして聴けば聴くほど、大竹氏による〈サポートギターの妙〉にも気づかされたのだ。デュオとは思えないような音の密度と豊かなアンサンブル――贅沢なライブだった。

 林生祥と大竹研による新竹でのパフォーマンスの様子
 

帰りの車内で、大竹氏から林氏と出会った経緯や、台湾での音楽活動についてなど、ギタリストとしてのこれまでのキャリアについて話をお伺いし、それがとてもおもしろく、印象深かった。そこで、今回は大竹氏に加えて、同じく東京中央線と生祥樂隊のメンバーである早川徹氏、福島紀明氏も招いて、インタビューを行った。

 

生祥樂隊
(左から)福島紀明、大竹研、林生祥、鍾永豐、早川徹、吳政君、黃博裕
 

僕らが東京中央線になるまで

――まずは改めて、インストバンドの東京中央線について訊きたいのですが、バンド名の由来について教えていただけますか?

大竹研(ギター)「2013年くらいのことだと思いますが、僕と早川くんのデュオで、台北でライブをやったんですよ。早川くんは中央線ジャズの代表的ミュージシャン、古澤良治郎さん(2011年に逝去)と一緒に演奏していたというバックグラウンドを持っている人なので、台北で演奏するとき〈早川くんがこれまでに演奏してきた曲とか、縁がある曲、ずっと聴いてきた曲をやれたらいいよね〉という話をしてたんです。それで、ライブのタイトルを〈東京中央線〉にしたんですけど、台湾の人がバンド名だと勘違いして、期せずしてあだ名がついてしまったという。

だけど、東京中央線シーンのジャズミュージシャンは素晴らしい人がたくさんいますし、そのようなバンド名を名乗るのはおこがましいとずっと思ってたんです。福島さんを交えた3人で演奏するようになり、作品を作ったときに、(正式に)アーティスト名が必要になったので〈みんな、これで認識しているし、東京中央線にしちゃおっか〉となったんです」

――それはおもしろいですね! 台湾で結成されたということもあり、拠点はやはり台湾なんですか?

大竹「そうですね、演奏もレコーディングもたくさんしてますから。東京だと高円寺のJIROKICHIや新宿ピットインでもやりましたし、日本でもたまにやってますね」

――東京中央線の結成も、元をたどれば大竹さんが台湾で林生祥氏と一緒に音楽活動をするようになったところから始まっているのかと思います。林氏と出会い、一緒に音楽を作るようになった経緯について、詳しく教えていただけますか?

大竹「僕は2002年から2005年まで平安隆さんという、喜納昌吉&チャンプルーズにも在籍していた沖縄の唄者と一緒に音楽をやっていたんです。平安さんはボブ・ブロズマン(Bob Brozman)というアメリカのスライドギターを弾くブルースギタリストと一緒に世界中で演奏していて、アルバムも2枚出してました。当時は『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99年)が公開されて、ワールドミュージックが盛り上がっていた頃なので、世界各地でフェスがあったんですよね。2003年に、台湾のワールドミュージックのフェスから平安さんに出演オファーが来て、ボブさんの代わりに僕を連れて行ってくれたんです。

平安隆と大竹研のライブ映像
 

そのときのフェスのオーガナイザーが〈Trees Music〉という音楽レーベルもやっている会社で、当時、林生祥はそこから作品をリリースしていたので、ステージで生祥と共演することになって、それが最初の出会いですね。2005年にTrees Musicの計らいもあって、ドイツの〈Rudolstadt-Festival〉というフォークミュージックのフェスに、平安さんと僕で参加することになり、行ってみたら、生祥もいたんですね。〈それなら一緒に演奏しよう〉ということになり。その頃の生祥はバンド、Water3として『臨暗(Getting Dark)』(2004年)というアルバムを出したばかりだったので、Water3と平安さんが一緒にジャムるような形でライブをしたんです。

その後、何があったのかWater3は解散し、生祥から〈カリフォルニアのUCバークレーでライブがあるんだけど、隆と研も一緒に演奏しませんか?〉とオファーがあったんです。そこから2か月に1回くらいサポートギタリストとして呼んでくれるようになり、2006年の『種樹(Planting Trees)』の制作に参加して以来、ずっと一緒にやってますね」

林生祥と大竹研、早川徹による“種樹”のパフォーマンス映像
 

――そこに早川さんはどう加わったんですか?

大竹「2009年に、僕が『似曾至此(I Must Have Been There)』というアルバムを作ったんですけど、そこでベーシストが必要になり、大学時代からよく知っている早川くんに来てもらいました。そのときは僕のアルバムのレコーディングに参加しに来てたんですけど、ちょうど生祥が次のアルバム『大地書房』のデモを録っていたので、早川くんに参加してもらったら生祥も早川くんのことをすごく気に入って、そこから一緒に演奏するようになりました」

――なるほど。大竹さんと早川さんは大学ではどのような関係だったんですか?

早川徹(ベース)「サークルは違ったんですけど、たまに一緒に演奏はしていましたね」

――その頃はお互いどういう印象だったんですか?

早川「めっちゃ怖かったですよ(笑)。サークルなので、ときには恋愛もあったり、みんなで楽しく青春しているじゃないですか、基本的には。そんななかにも何人か吊り目の本気の人たちがいるんですよね。〈この人は本当に音楽をやっていくんだな〉って顔をした人たちのなかの1人でしたよ、大竹さんは」

大竹「僕が3年のときに早川くんが1年で入ってきたんですよ。もう、はじめから話題の人でしたね。早川くんが〈ラテン研究会〉、僕は〈軽音楽部〉でサークルは違ったんですけど、〈ラテン研にすごいのが入ってきた〉と言われてました。そもそも大学が小さいから、片手で数えられるくらいしか音楽サークルがないんですよね。だから、みんな友達なんです」

――早川さんは大学時代、プロを目指してやってましたか?

早川「完全に目指してました。就職活動とかもしなかったし。もともと大学もそんなに行きたいと思ってなかったんですけど、親にすごく説得されて〈行くは行くけど……〉となって(笑)。授業も嫌だったから最初の2年で全部単位を取って、残りの2年は授業に一切出ないという方式……。ひどいですよね(笑)」

――ちゃんと単位を取って卒業したのならすごいと思います(笑)。大竹さんからみて早川さんの凄さってマルチプレイヤー的な意味もあるんですか?

大竹「ベースはもちろん、鍵盤もできますからね。たまに〈なんでそんなにいろんなことができるの?〉って人がいるじゃないですか。それが早川くんですね。僕は基本的にギターしか弾けないし、やらないし、全然違うんです。それはお互い良かったんだと勝手に思ってます」

――お二人の音楽的バックグラウンドについても教えてください。小さい頃から何か楽器を弾いたりされていましたか?

早川「小さい頃からピアノのレッスンを受けてました。最初はあんまり好きじゃなくて、〈習い事〉という感じで、親から言われてやってました。小学校に上がってから、ビリー・ジョエルとかポップスが好きになって、〈ピアノかっこいいな〉と思うようになって。それでやりたいことがはっきりしてからは、レッスンよりも自分で音楽を研究するようになりました」

――ベーシックはやはりピアノなんですね。

早川「そうですね、脳みそがそうなってるというか、思考が鍵盤ですね」

――ベースはいつ頃から始めたんですか?

早川「高校くらいだったと思いますね、質屋さんで安いベースを買って」

――大竹さんはやはり最初からギター一筋でしょうか?

大竹「僕も小さい頃は親のすすめでピアノを習っていたんですけど、全然上手くならなかったですね(笑)。けど音楽はずっと好きだったんですよ。それで、思春期に入って、周りの友達も長渕剛とかサザンとか、音楽を聴き始めて。僕は中学のときにBOØWYがすごく好きになって〈ギターをやりたい〉と思った。受験を終え、高校からギターを始めたんです」

――本日、福島さん(ドラムス)は途中からの参加となっているので、まだいらっしゃっていませんが、福島さんはどういった経緯でお二方に合流したんですか?

早川「さっきも名前が出た、古澤良治郎さんというジャズドラマーがいて、僕と福島さんはそのボーヤ(ローディー)の仕事をしていたんです。古澤さんは若手と演奏するのが好きで、チャンスを与えてくれる人だったので、福島さんはボーヤをやりながら、古澤さんのバンド〈ね.〉でドラムを叩いていたんです。

僕は大学時代、〈音楽業界に入るにはどうすればいいのか〉って話を友達としていて、伝統的にプロで活躍している人のボーヤになって人脈を広げていくものだということを知り、古澤さんのもとでボーヤとして働き始めました。古澤さんはドラマーだったので、基本的にはドラマーのお弟子さんが多くて、僕はベーシストということで珍しく、比較的早い段階で〈ベースを持ってこいよ〉という話になって、ね.でベースを弾かせてもらえることになったんです。そこに福島さんもいて、月に1〜2回一緒にライブをやってました。

そこから10数年一緒にやっていたので、付き合いは本当に長いです。台湾で活動を始める前も、東京でジャズ系の伴奏の仕事とかも一緒にやってましたし、苦労を分かち合うじゃないですけど、戦友みたいな感じですね。

僕が台湾に行き始めた頃は、福島さんはまだ東京でやってたんですけど、台湾の話をよくしてました。で、台湾で大竹さんとインストジャズのライブを何度かやり、〈ドラムが欲しいね〉という話になり、福島さんを呼んだわけです。東京中央線としてトリオで演奏するようになったあと、生祥もアルバム『我庄(I-Village)』(2013年)をリリースしてからは、音楽的にもよりロックに傾倒していき、ライブもフルバンドで行うようになった。そこでドラムが必要になり、福島さんが参加するようになったんです」

 古澤良治郎(左)のボーヤをしていた頃の福島紀明(中央)と早川徹(右)

 

林生祥の巨匠たるゆえん

――林氏の現在の活動のメインが生祥樂隊で、福島さんも含めて皆さんがオフィシャルメンバーという認識で間違ってないですか?

早川「そうです、基本はこのメンバーでやります。残念ながら、最近はコロナで活動が難しくなってますけど」

――作曲段階から参加して、一緒にアレンジとかもされているんですか?

早川「ここ何作かは、生祥から作曲について相談されることはありますが、彼は彼でビジョンがしっかりしている人なので、僕がそこで何か大きく貢献しているというわけではないです。一緒にデモを作って、メンバーと共有し、各パートのアレンジを考えたりということはしてますね。生祥としても誰かに相談しながら頭を整理して、作曲したいというのはあるのかもしれませんね」

――林生祥の曲は歌詞の重要性も高いと思うのですが、デモ段階で歌詞も決まっているのでしょうか?

早川「生祥の作詞を担当している鍾永豐さんが歌詞をすべて書き終わっている、というのが最初のステップなんですよ。最初に歌詞があるんです」

――メロディーじゃないんですね! 林氏の曲はメロディーもキャッチーで印象深いものが多いので意外でした。

早川「メロディーじゃないんですよ。だから、アルバム制作も鍾永豐さんが全曲の歌詞を書き終えているところから始まります。鍾永豐さんは、作曲はしないんですけど、〈こういう曲調であってほしい〉というイメージはあるので、参考音源などを共有してくれます。生祥がそれを汲み取ったうえで、大きな方向性が決まっていると思います」

――そうとは知りませんでした。ということは鍾永豐さんがある程度、音楽的な響きやリズム感なども意識されて作詞しているのでしょうか?

早川「すごく音楽的に考えて詩を書いていると思います。レコーディングも立ち会いますし、音について意見も言います。それこそエルトン・ジョンとバーニー・トーピンのような関係というか」

――ここまで作詞家の方が前面に出てくるというのも珍しい気がします。バンドの写真にも入ってますし、もはやメンバーと言ってもいいのでしょうか?

早川「そうですね、それこそ僕が加入したときは鍾永豐さんから〈僕らのバンドへようこそ〉と言われて。自分もメンバーだと思っているんだな、という印象を受けました」

生祥樂隊
左端が鍾永豐
 

――歌詞の意味をメンバーと共有することが表現において重要になってくるかと思いますが、言語の壁もあるかと思います。そこはどうされてますか?

早川「英訳されたものをメールで配ってくれたりしますね。リハのときも生祥自らが英語で説明してくれて、そこはみんなで共有できる体制が出来ています」

――林氏の音楽ではスオナー(チャルメラ)や月琴といった伝統楽器も頻繁に使用されており、そういったポピュラーミュージックにおいてあまり一般的ではない楽器を交えて演奏する難しさはありますか?

大竹「僕は平安さんと一緒に4年間、音楽をやっていて、三味線と沖縄民謡をやるのが当たり前だったので、月琴やピパ(琵琶)、スオナーがいるから苦労したというのは特にないですね。それはなぜかというと、生祥が音楽的な文脈をきちんと説明してくれるからなんです。例えばギターをなんとなく弾くと、ブルースっぽいフレーズになりがちだったりしますよね? そういう西洋のバイアスは自然と出てしまうので、ギターを使っていたとしても、〈そこまで西洋に寄らないでね〉といったディレクションはリハーサルではありますね」

早川「あと、歌っているときのテンポ感とか、音楽的なフィーリングに生祥は敏感だったりします。自分でギターを弾いて歌う人なので、自分の呼吸感があるんですよね。そこに合わせるのに苦労することはあります。ベーシストって中間管理職というか、ボーカルとドラムが合うための調整役だったりもするので、僕は基本的に生祥の口の動きを見て演奏していますね。ツアーだと体調もあるし、〈今日は少しゆったりやりたい気分なんじゃないかな〉と感じたときは、本来元気な曲でも少しペースを抑えて、ドラムにもそれが伝わるようにしたり」

――指揮者のような立ち位置もこなされているんですね。

早川「ベーシストのポジションってそうなりがちだと思うんですよね。やってることは単音を鳴らしているだけなので、できるだけいろんな人と絡み合うように、というのは意識します。逆にいうと、それだけ生祥が演奏家として独立しているということでもあるんですよね。彼らしく、気持ちの良い演奏ができるようにサポートしたいなと思いますね」

――林生祥のパフォーマーとしての技量もすごいものがありますか?

早川「それはすごいですよ」

大竹「だって間違えないですからね」

早川「間違えないし、音楽の成立の仕方に背骨があるというか、コードをただジャカジャカ弾いて、メロディーを乗せて、ということではなく、歌と楽器がリンクしてるんですよね。ギターの使い方についても、6本の弦をどう使うのかというオーケストレーションがちゃんとあるんですよ。生祥は映画のサントラも手がけていますが、そういうときはフォークシンガーというより〈音楽家〉という感じがするんですよね」

――以前、新竹で林氏と大竹さんのデュオを観たときに感じたことですが、決して派手なプレイをしたり、楽曲に奇抜な展開があるわけではないのに、演奏に安定感があり、1音1音の細部へのこだわりを感じました。林氏のディテールへのこだわり、という観点で何かエピソードはありますか?

早川「生祥はオーディオマニアで、自宅にものすごくいいオーディオシステムが備わってるんですよ。なんとなく聴いているというのでなく、本当に〈鑑賞している〉って感じなんです。レコーディングでも歌の細部にこだわって録り直したりするし、こだわりはありますよね」

――ここで福島さんが到着しました。いきなりですが、林氏との交流で印象的なエピソードはありますか?

福島紀明(ドラムス)「生祥の住んでいる美濃(高雄市)は山が見え、畑が広がっていて、夜は星がめちゃくちゃ綺麗なんです。“南方”という曲があるんですけど、その曲を演奏するときに〈美濃の景色をイメージした大きなリズムで叩いてくれ〉って言われましたね。逆に8ビートや16部音符がどうたらといったディレクションはあんまりないんですよ」

美濃の景色
Photo by 林生祥
 

――それはおもしろいですね。となると演奏するメンバーとしても美濃をよく知っていないといけないということですよね。皆さんは美濃にはしょっちゅう行かれているんですか?

福島「行ってますよ。生祥の家にも泊まらせてもらってます」

――林氏は生活も含めて、全ての拠点が美濃ということでしょうか?

福島「そうですね。僕が入る前は美濃でレコーディングもされてますよ」

大竹「その話もしたほうがいいですね。生祥の奥さんの実家が美濃で民宿をやっていて、そこでレコーディングしたんです。『種樹』という2006年のアルバムと、『野生』(2009年)、『大地書房』(2010年)、あと僕のアルバム『似曾至此(I Must Have Been There)』(2011年)はすべてそこで録ってますね。環境音も入っちゃっていい、くらいのノリでやってます」

2009年11月、美濃の民宿にて『似曾至此(I Must Have Been There)』をレコーディング中の大竹研

 

シンプルな生活から生まれる音楽

――コロナ禍の前は皆さん、どのくらいの頻度で台湾に行かれてましたか?

早川「日本と台湾にいるのが半々くらいでしたかね。1回行ったら、1〜2か月は滞在してます。それで帰国して、また行ってという。向こうで予定を組んでくれているので、滞在中にできるかぎりいろいろなことをしてましたね。新北市にみんなでアパートも借りてるんですよ」

――だとすると、完全に2拠点というか、台湾で生活している感じですね。

早川「そうですね」

――あと、金曲奨への参加もかなり経験されていると思いますが、音楽キャリアにどのような影響を及ぼしましたか?

大竹「東京中央線としても受賞していますが、音楽系の催しでジャズ系のバンドが必要なときに声がかかりやすくなった気はしますね。あと、金曲奨はテレビでも放映されるので、街中でおばちゃんに〈あなた、受賞してたでしょ〉なんて声をかけられたり。認知度は上がってるのかなという気がしますね」

――林生祥は金曲奨でのノミネートや受賞経験も多数かと思いますが、そこで印象的なのがアルバム『種樹』で〈ベスト客家語アルバム〉と〈ベスト客家語シンガー〉を受賞したときに、〈音楽は言語によって区別されるべきではない〉という理由で受賞を拒否をしたというエピソードです

大竹「そうですね、壇上に上がってそれを言うためには賞をまず取らないといけないですから。それ以降、そのカテゴリーには申請していないと思いますね」

――生祥自身は〈言語カテゴリーを廃止したほうがいい〉と思っているのでしょうか?

大竹「これは僕の憶測になってしまうのですが、今年の〈ベストアルバム賞〉が原住民シンガーの桑布伊(Sangpuy)の作品で、音楽性もモロに原住民音楽という作風ですよね。生祥が受賞を拒否した2007年当時はもっとカテゴリーごとに境界線がはっきりしてたんです。なので、〈音楽的にとてもいいことをしているのに、言語でカテゴライズされて、そこでしか語られないのはとても残念〉という意味だったんだと思います。今、生祥にそのことを訊いたらどんな答えが返ってくるかはわかりませんけど、当時は今と状況が少し違ったんですよね。最近の金曲奨はその境界線も曖昧になっていて、僕はそこがおもしろいとも思っています」

――林生祥のオーディエンスについてなのですが、これはやはり客家の人たちがメインなのでしょうか? あるいは関係なく幅広く聴かれているのか。

大竹「今はもう、客家語がわからない人にもファンがたくさんいると思いますね。客家の人たちのための音楽という印象はまったくないです」

――僕自身、林氏の音楽のいちリスナーとして、歌詞の意味がまったくわからなくても、メロディーや声の良さ、楽器のアンサンブルや音質など、いくつものポイントで聴き入ってしまいます。林氏ご自身が〈音楽に言葉は関係ない〉という考えを持っているからこそ、ユニバーサルな音楽にしようという意志があると思いますか?

大竹「そうですね、逆説的にいうと、だからこそ英語やマンダリンで歌う必要もない、ということになるのかもしれませんよね」

――林生祥は海外公演も多いと聞きました。

早川「熱烈なサポーターがいるんですよね。中国にもいます。そういう人たちが生祥の音楽を広めたい、という熱意だけで呼んでくれてるんです。草の根的に広がっているというか」

大竹「もともとそうでしたよね。最近は上海の大きなフェスにも出たりしてますけど。それにはRADWIMPSとかも来ていて。ただ、このような大きな商業フェスに呼ばれるようになったのは最近のことで、昔では考えられないことでした」

早川「鍾永豐さんが結構、中国と繋がりがあって、書いた本が出版されたりしてるんですよね。以前に中国で、鍾永豐さんの詩の朗読に合わせて、僕が伴奏をするという企画があったのですが、向こうにも鍾永豐さんの熱烈な支持者がいるんです。文学的な意味で興味を持たれていて。生祥も音楽だけでなく、社会問題を題材にしていたり、その姿勢も含めて魅力的に映っているのかと思います」

――それでいうと、生祥樂隊のバイオグラフィーには〈林生祥と鍾永豐の農業社会への深い理解と、林生祥の特異な音楽性、声が合わさることで、リスナーは台湾の田舎の生活を深く味わうことができる〉と書いてありました。歴史的に見て、中国から台湾に移り住んできた漢人たちのなかで、客家は勢力的にいちばん小さかったため、その他の部族や原住民との諍いを避けて、丘陵地帯に住んでいたとか。こういった理由から、客家の人々には忍耐強い特性が備わったともいわれています。そういったルーツも反映されていると思いますか?

早川「根っこに移民というか、〈生来の根無し草〉と言える性質はありますよね。台湾では原住民の人たちは元からいたわけですけど、客家の人たちのように移り住んできた民族からしてみると、〈故郷ってなんなんだろう?〉という。〈ホーム〉という考え方に対して、ノスタルジーを感じているのかもしれませんよね。生祥は〈自分の生活をシンプルに〉といつも言っていて、毎日、決まったルーティンをひたすらこなすことを大切にしているんです。それによって、しっかり根を張りたいんでしょうね」

――なんだかアスリートのようなストイックさにも思えますね。毎日の小さな積み重ねを大切にして、地味な練習を続けて、という。大きな野望を思い描くというよりは、目の前のタスクをこなしていく堅実なタイプというか。

早川「そうですね。最近、Skypeしたら〈ずっと庭掃除をしてる〉って言ってましたね」

――けど、深いですね。表現している題材が生活だからこそ、なんてことのない日々の生活を大切にしているようにも思えますし。そのなかでの気づきが楽曲のインスピレーションにもなって。

早川「そういうところありますね。で、創作するときは一気に集中してみたいな」

 

客家ミュージシャンの新世代

――原住民音楽だと、伝統を保護する一方で、ABAOさんのように現代的な手法と掛け合わせて、ポピュラーミュージックのフィールドでも積極的に発信していこうという方もいて、どちらも大切にしている印象です。そういう文化の保護、継承という観点で、林氏のスタンスはどうなのでしょうか?

大竹「僕から見た印象の話になってしまいますが、もちろん客家の伝統は続いていってほしいと思っているはずです。けど、次の世代が出てくるのは当たり前のことですし、自分が歳を取れば引退するし、何かしゃかりきになって文化の保護/継承に取り組んでいる感じはしないんですよね。若い人に対してもそんなに押し付けがましい感じがないですし。それでも、的確に気にかけてはいて、それは自分に対しても感じます。熱量と行動のバランスがいいと思いますね」

――アーティストであり、堅実な生活者であり、という側面が非常に興味深いです。早川さんがプロデュースした米莎(Misa)さんのアルバム『戇仔船(The Ship Of Fools)』は昨年の金曲奨で〈最優秀客家歌手賞〉と〈最優秀客家アルバム賞〉の2部門を受賞しました。彼女なんかはまさに〈新世代客家シンガーソングライター〉といった存在ですよね。

早川「〈女性版生祥〉って書いてる記事もあって(笑)それは本人にとって嬉しいことなのかどうなのか僕は考えたりもしたんですけど、メディアの人がそう言っているだけで、米莎ちゃん自身は真に受けている感じでもないですね。あの人はあの人で独自のスタンスでやっている人ですし。生祥から影響も受けているし、尊敬もしているけど、世界観という意味では全然違うところにいる気もします」

2020年の金曲獎で米莎が受賞した際は、プロデュースを手がけた早川も登壇した
 

――早川さんからみてその違いってなんですか?

早川「歌詞がもう少し暗喩的というか、ストレートではないんです。文面通りに読んでも少しオブスキュアな印象は受けるかもしれないですね。イメージ的というか、ファンタジックな世界観なんですよ。音楽の趣味も、古めかしいジャズが好きだったり。それこそ1950年代以降のモダンジャズというよりはもっと昔のものとか。ギターを使って作曲をする、というプロセスは同じかもしれないですけど、その響かせ方は違うなと」

米莎の2019年作『戇仔船(The Ship Of Fools)』収録曲“1984”
 

――となると、ジャズのバックグラウンドを持ち、林氏と活動してきた早川さんがプロデュースしているのにも必然性を感じますね。

早川「それまでは何年かおきにライブのイベントとかで会って、長時間話す仲だったんです。それでいろいろとやりたそうだったので〈何かあったらお手伝いするので声かけてくださいね〉みたいな話はしてたんですよ。それで依頼が来たのかなと。ありがたかったのは、僕を信頼して仕事を委ねてくれたところですね。なので、僕からの提案は基本的に全て受け入れてくれました。あと新世代客家シンガーソングライターでいうと、黃瑋傑くん(Huang Wei-jie)なんかも生祥の影響かなり受けてますよね。好きすぎじゃないかと思うこともあるんですけど(笑)、それでも彼には彼なりのスタイルがありますね」

黃瑋傑の2015年作『天光。日』収録曲“已經恁夜欸”

 

林生祥、思い出の1曲

――最後に皆さんにとっての〈林生祥、思い出の1曲〉を教えていただけますか?

福島「僕はやっぱり“風神125”(2001年)ですね。歌詞の内容もよく理解してますし。こういう曲があるという話は研さんと早川からずっと聞いてたんですよ。夢を抱いた若者が、南から北へ上京して、報われずにまた田舎に帰っていく、というストーリーも含めて。実際に生祥たちとライブで演奏すると、お客さんが大合唱してたんですよね。自分はそういう経験がなかったので、涙が出てきたというか、本当に感動しましたね」

林生祥と大竹研、早川徹による“風神125”のパフォーマンス映像
 

大竹「生祥が昔組んでいたバンド、交工樂隊の楽曲ですね」

――大竹さんも同じですか?

大竹「福島さんが“風神125”なら、僕は違うのを選びますよ(笑)。早川くんは?」

早川「“風神125”以外をあげるとすれば 、アルバム『野生』に収録されている“南方”(2009年)ですかね。さっき福島さんの話に出た、美濃の自然を意識した曲ですね。台湾に通い始めて間もない頃、GIMA(Golden Indie Music Awards)に参加することになったんですけど、研さんが来れなくて、僕と生祥の2人で演奏することになったんですよ。まだお互いよく知らない頃だったので、めちゃくちゃ緊張しました(笑)。ギターソロのパートとかもベースでやらなきゃいけなくて。演奏したあと、記者会見で報道陣が詰めかけて、フラッシュたいてて、生祥が有名人であることを初めて知ったんです。そのときに演奏したのが“南方”でした」

林生祥と大竹研による“南方”のパフォーマンス映像
 

大竹「僕は生祥樂隊の最新アルバム『野蓮出庄』(2021年)から7曲目の“對面鳥(The Bird Catcher Tree)”です。これは鍾永豐さんの歌詞が素晴らしいし、生祥が書いた曲とも合ってるんですよ。早川と福島のリズム隊のアプローチもいいですし。コード進行も超シンプルなのに演奏していて飽きない。“風神125”は生祥が30歳になる前に書いた名曲で、“南方”が40歳になる前に書いた名曲だとすると、50歳直前に書いた名曲はこの“對面鳥”なんじゃないかと思いますね。歳を取らないと表現できない曲だと思います」 

生祥樂隊の2021年作『野蓮出庄』収録曲“對面鳥(The Bird Catcher Tree)”

 


PROFILE: 関 俊行
ミュージシャン/プロデューサー/ライター。MIDI Creativeにて自身のアルバムをこれまでに2枚リリースする。近年は、「ミュージック・マガジン」2020年4月号の特集〈台湾音楽の30年〉への寄稿や、Taiwan Beatsへの参画など台湾の音楽を積極的に発信している。