脱退や解散を乗り越えて
レコーディングに先駆けてグループにはコリン・ピーターセン(ドラムス)と豪州時代からの友人だったヴィンス・メローニー(ギター)が加入。敏腕マネージャーのスティグウッドは、人気絶頂のビートルズと比較しながらビー・ジーズの売り出しを開始しました。(ビートルズの新曲だと思い込ませるべく)曲名だけを書いたホワイト盤をラジオ局に配布したこともあるそうで、それが奏功してか“New York Mining Disaster 1941”はラジオで評判となり、早くも全英12位をマーク。さらに、もともとオーティス・レディング(アトコでのレーベルメイトでもあった)に提供するために書かれた“To Love Somebody”は全米ヒットを記録し、これはニーナ・シモンからジャニス・ジョプリン、ロバータ・フラック、マイケル・ブーブレまでが取り上げるスタンダード的な一曲となった。そうした成果を踏まえたワールドワイドでの初作『Bee Gees’ 1st』(67年)は全英8位/全米7位を記録。グループは順風満帆なスタートを切っている。
翌68年は次のアルバム『Horizontal』とそこから生まれた初の全英1位シングル“Massachusetts”に沸き立つ年だった。同年にはもう1枚のアルバム『Idea』から“I’ve Gotta Get A Message To You”も全英No.1に輝き、他にもこの年には人気のバラード“Words”や“I Started A Joke”などのヒットも飛び出している。ただ、そんな盛り上がりのなかでヴィンスは音楽性の違いからグループを脱退。成功の陰でギブ兄弟の間にも諍いが起こるようになる。
69年にアルバム『Odessa』とシングル“First Of May”がリリースされる頃には、ロビンがソロ転向を意図してグループを脱退。その脱退理由は、自分の書いた曲がB面になるのが納得いかず、スティグウッドがバリーを優遇していると感じたからだったという(なお、日本でも人気になったこの年にはザ・タイガースに“スマイル・フォー・ミー”を提供しているが、それもバリーとモーリスの作だった)。残されたメンバーたちはそんな状況下で次作の制作を続けるが、レコーディング期間中にドラマーのコリンが解雇。結果的に2人組となって70年初頭に発表した『Cucumber Castle』は不発に終わり、リリース直後にバリーとモーリスも決裂する結果となった。ここでビー・ジーズはいったん消滅するのだった。
モーリスは早速ソロ・シングル“Railroad”(70年)を発表し、バリーもアルバム制作をスタート。一方で先に独立したロビンはソロ活動でも成功を収めていた……が、同年半ばに互いの歩み寄りがあって、3兄弟は話し合いの末にリユニオン。雨降って地固まるとばかりに、秋には3人での新作『2 Years On』を発表している。翌71年の『Trafalgar』からはシングル“How Can You Mend A Broken Heart”(アル・グリーンのカヴァーもよく知られている)が初めて全米1位を獲得し、彼らに初のグラミー賞ノミネートももたらした。