デトロイト・ソウルの輝きを永遠のものにした3人の男たちがいた……とたびたび取り上げてはいますが、ホランド=ドジャー=ホランドの輝きは何度でもやってくる! 注目の編集盤に合わせて改めて紹介しましょう!

 モータウンのトップ・ソングライター・チームとして、60年代を通じてその屋台骨を支えてきたホランド=ドジャー=ホランド(H=D=H)――エディ・ホランド、ラモント・ドジャー、ブライアン・ホランド。〈モータウン・サウンド〉という言葉を聞いた時にまず思い浮かぶようなあのリズムやメロディー感、それらの多くはこのトリオが生み出したものであり、彼らの残してきた作品はそのまま60年代モータウンの眩しい光の側面そのものであった。

 一方で、その功績が正当に評価されてこなかったとして、利益の分配などをめぐってモータウンの運営陣と対立。やがては喧嘩別れの形で独立を果たした一連の騒動はモータウンの影の部分だろう。その後のトリオは、LAへ拠点を移した古巣とは対照的にデトロイトに残り、自分たちの会社としてホランド=ドジャー=ホランド・プロダクションを、レコード・レーベルとしてホット・ワックス/インヴィクタスをそれぞれ設立。決して長くはなかったその活動期間において、60年代とはまた異なる魅力的な楽曲を残すことになった。そのように切り取る時期によってサウンドもスタイルも微妙に異なる彼らだが、そのプロデューサー/ソングライターとしての黄金時代を確認できるのが、このたびケントでコンパイルされたソングブック『A Different World: The Holland-Dozier-Holland Songbook』と、インヴィクタス/ホット・ワックスの主要音源を集めた4枚組のアンソロジー『Holland-Dozier-Holland Invictus Anthology』である。

VARIOUS ARTISTS 『A Different World: The Holland-Dozier-Holland Songbook』 Kent(2024)

VARIOUS ARTISTS 『Holland-Dozier-Holland Invictus Anthology』 Edsel(2024)

 いずれもデトロイト出身となる3人が地元で躍進する新進レーベルのモータウンに集まったのは60年代初頭のことだ。エディ・ホランド(39年生まれ)は58年に“Little Miss Ruby”でマーキュリーからデビューしていたシンガーで、同曲をプロデュースしたのがモータウンを興す前のベリー・ゴーディJrだったこともあり、設立後はそのまま自然にモータウンと契約することになった。一方、その弟にあたるブライアン・ホランド(41年生まれ)はスタッフ・ソングライターとしてモータウンに入社し、さまざまなミュージシャン/プロデューサーたちと組んで楽曲を書いていた。61年にはレーベル初の全米No.1ヒットとなったマーヴェレッツの“Please Mr. Postman”を共作/共同プロデュースして実績を残している。同曲のプロデュースはロバート・ベイトマンと組んだブライアンバートなるユニットで手掛けており、コンビは初期モータウンにおける主要プロデュース・チームのひとつでもあった。そしてラモント・ドジャー(41年生まれ)は、50年代後半からアンナやメロディーなどゴーディ家絡みのいくつかのレーベルで録音していた。やがてブライアンバートのコンビが解消されると、ラモントはブライアンとのコンビで制作する機会を増やしていく。

 そのホランド=ドジャーはエディの楽曲もプロデュースしていたが、エディはステージ恐怖症だったこともあって裏方への意欲を高めていき、やがてソングライター・チームとしてのH=D=Hが形成されることになった。主に作詞とヴォーカル・アレンジを担当するエディが加わったことでトリオは63年頃から躍進を始め、マーサ&ザ・ヴァンデラス、シュープリームス、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイらに象徴的なナンバーを授けながら記録破りのヒットを量産していく。

 それだけに、先述したようなモータウン離脱劇は双方に痛みを残す結果となった。モータウンが契約違反でH=D=Hに訴訟を起こすとH=D=H側も反訴。長引く裁判の傍ら、ホット・ワックス/インヴィクタスは69年から始動した。ただ、モータウンの出版部門と契約していた3人はソングライターとして自分たちの名前を記載することができず、クレジットにはエディス・ウェインという名前が用いられることになる。

 70年にはフリーダ・ペインの“Band Of Gold”が全米3位まで上昇するヒットとなり、チェアメン・オブ・ザ・ボードの“Give Me Just A Little More Time”も同じく全米3位を記録。以降もヒット規模や数では往時に及ばないながらも多くの名曲を生んでいく。が、73年にホット・ワックスが倒産するとラモントはHDHPを退社。残ったホランド兄弟は77年までインヴィクタスを運営しつつ、驚くことに裁判中の古巣モータウンも含めてプロデュース活動を展開していった(77年に和解が成立)。一方、ソロ・アーティストとしての活動を再開したラモントは一定の成功を収めつつ幅広いフィールドでの楽曲提供も行い、89年には共作/プロデュースしたフィル・コリンズ“Two Hearts”で全米1位を獲得してもいる。

 83年にはフォー・トップスのモータウン復帰作『Back Where I Belong』の制作に参加して、H=D=Hの3人も10年ぶりにリユニオン。88年に〈ソングライターの殿堂〉入り、90年には〈ロックの殿堂〉入りも果たした。もっとも精力的に活動していたラモントは2022年に逝去したが、その功績はもちろん朽ち果てない。今回のソングブックでもさまざまなアーティストの歌唱を楽しむことができるし、今後もその数は限りなく増えていくことだろう。

左から、100プルーフ・エイジド・イン・ソウルの70年作『Somebody’s Been Sleeping In My Bed』(Hot Wax)、エイス・デイの73年作『I Gotta Get Home (Can’t Let My Baby Get Lonely)』、ニューヨーク・ポート・オーソリティの77年作『Three Thousand Miles From Home』(共にInvictus)

ラモント・ドジャーのソロ作を一部紹介。
左から、74年作『Black Bach』(ABC)、81年作『Working On You』(Columbia)、2018年作『Reimagin ation』(Goldenlane)