ヒップホップビートのルールを変え、ネオソウルやジャズにも多大な影響を及ぼした唯一無二のプロデューサー、J・ディラ。彼の生前最期のアルバムにして名盤『Donuts』が2006年2月7日のリリースから20周年を迎えた。今回はこれを記念し、話題の本「ディラ・タイム あたらしいリズムを創ったヒップホップ・プロデューサー(仮)」の邦訳に取り組む批評家/ビートメイカー/ラッパーの吉田雅史に本作を論じてもらった。 *Mikiki編集部
無数の疑問を生む最高で奇妙な作品
いまだ得体の知れない、一枚の円盤。だがそれは発売から20年という歳月を経ても燦然と輝き続け、多くのリスナーを惹きつけてやまない。この『Donuts』は、個人的にも、いまだになにひとつわかった気がしない作品のひとつだ。『Donuts』とは、J・ディラが遺した、最高に奇妙な作品だ。最高で奇妙な作品と言い換えてもいい。
なぜ奇妙なのだろうか。この作品は、発売当初からえも言われぬ違和感をまとっていた。まずは一聴して、それまでのジェイ・ディー時代とは、作風も、サウンドもまったく異なっていた。ジェイ・ディー時代の一時期のトレードマークであった、重心の低いキックと突き抜けるクラップ、サブベースのベースラインに、浮遊感溢れる上ネタといった構成のビートもここにはない。
あるのは無数の疑問だ。聞くたびに、はっと息を呑むような疑問がやってくる。なぜここにこんな変な音が? なぜこのサンプルネタはこんなに変な切れ方をするんだ? なぜこんなにドラムが後ろに引いた感じなのだろう? なぜこのサンプルはこんな変な感じでループされる? このステレオの定位の広がり感はなんだ? なぜこんなに全部の曲がドーナツの食べかけの断片みたいに短いんだ? そもそも、なぜ2分弱のビートの断片を並べることでこんなに統一感のあるアルバムが成立するんだろう?
この疑問の数々は、そのままこの円盤の魅力を指し示している。変な感じのループや、サンプルの変な切れ方は、これらのループが持つ中毒性に寄与している。後景に引いたドラムは、それまでのラップのバックトラックとしてのビートという役割から自由になり、リスナー側に首の振り方を委ねるインストゥルメンタル音楽としての自律性を示しているようだ。
ドーナツを片手に嗜む小旅行は、どこか不穏な“Donuts (Outro)”に続く“Workinonit”のエンジン音で幕を開け、ビースティ・ボーイズのアドロックに煽られテンションが上がる“The New”、抒情的なネタがエモーショナルな“Time: The Donut Of The Heart”、アール・スウェットシャツ『Some Rap Songs』(2018年)以降の現代的な変則ソウル歌声ネタの先駆けのような“Airworks”、子供の頃に見たおとぎ話の夢のような“Lightworks”、早回しされるソウルフルなボーカルとドラムが軽やかな“Two Can Win”、低音のキックとベースが突進する“Thunder”、メランコリックなストリングスとギターのアルペジオが旅の終わりを予感させる“Last Donut Of The Night”まで、非常に様々な景色をわたしたちに見せてくれるが、それらはヒップホップのインストモノとは思えない振り幅を持つ。ラストの“Welcome To The Show”の最後は冒頭のイントロとそのままつながり、望むならこの円盤を延々と何周も味わい続けることで、いつまでも留まっていられる仕掛けになっている。
2022年にはダン・チャーナスによる「Dilla Time: The Life And Afterlife Of J Dilla, The Hip-Hop Producer Who Reinvented Rhythm」が出版され(目下、鋭意邦訳作業中)、20周年として45回転の高音質なヴァイナルがリリースされたいま改めて、本作の奇妙さについてもう少し考えてみたい。
Pro Toolsという武器が後押しした自由な実験
まずは「Dilla Time」に詳しく述べられているのだが、ディラがこの奇妙な作品を制作するにいたった背景を見ておきたい。ジェイ・ディーとして、そしてジ・ウマーの一員としてのプロデュースワークが評価された1990年代後半は、それまでビートメイキングの中心を占めていたサンプリングという方法が節目を迎えていた。商業的にも巨大化していったヒップホップにおいて、サンプリングは元ネタの音源の使用許可を得るためにときに巨額のコストのかかる手法となっていた。とりわけ当時勢いを増していたサウス勢、ティンバランドやザ・ネプチューンズは、そうしたサンプリングに頼らず、オールインワンタイプのキーボードなどの機材を活用した、新しい手法を用いていた。
あるときドクター・ドレーのスタジオを訪れたJ・ディラも、サンプリングネタを楽器で弾き直して制作する彼の手法に衝撃を受ける。これを受け、ディラはサンプリングの手法でほとんど完成していたフランク・ン・ダンクのアルバムのビートを一旦白紙に戻し、ほとんど一から作り直すことになるほどだった。ディラはそれまでのMPC3000を中心に据えた制作方法を見直し、PCとDAWのPro Toolsを導入し、サンプラーではなくmicroKORGのようなキーボード機材も用いて新たなビートメイキングの手法を模索するようになる。
そうした理由で、ディラは一時期サンプリングから離れていた。だがその後今度は〈なんでも自由にサンプリングできるとしたら〉という発想に立ち返り、制作されたビートテープが『Donuts』の原型だった。だから、そこには解放感溢れるディラの自由さ、自由な発想が表れている。
さらにその自由さを後押ししたのがPro Toolsという武器だ。それ以前にも、サンプリング時間などの制約のあるMPCという機材を用いて、ブラック・スター“Little Brother”(2000年)のような非常にテクニカルで緻密な設計図に基づくビートを制作してきたディラにとって、DAWは鬼に金棒のようなツールだっただろう。なんといっても音の波形をモニタ上で目視しながら自由に様々な実験が遂行できるのだから。
その自由さは色々な場面に表れている。たとえばドラムにギターに歌声と、様々なパートを重ね合わせ、抜き差しすることで激しい展開を作ったように聞こえる“Workinonit”が、実は一曲の元ネタの色々な部分を切り貼りすることで制作されていたり、“Time: The Donut Of The Heart”や“People”、“Don’t Cry”といった曲においてテンポが大きく変わるアレンジが見られたり、“Airworks”では毎回同じループではなく元ネタの別の箇所をイレギュラーに挿入することでリスナーの予想を裏切るような構成となっている。さらには、全編に散りばめられた声ネタやスクラッチ、SEの数々はどうだろう。これらは、自由に編集可能なDAWというキャンバスを手に入れたことで、多くの楽曲に綿密に配置されたように思われる。サンプリングに回帰するのであれば、過去に試したことのないアプローチを駆使して、リスナーが、そして自分自身が予定調和に陥るのを裏切ること。それがディラの意図だったのかもしれない。
これらの声ネタやサンプルネタに含まれる歌声といった声そのもの、あるいはそれらがもたらす言葉の響きは、インスト作品である本作のなかでも大きな存在感を持っている。盟友マッドリブとMFドゥームによるマッドヴィランの『Madvillainy』(2004年)において、音声のコラージュを多用したインタールードによってアルバムの統一感が担保されていたように、ディラがPro Toolsというキャンバスを用いて自由に並べた声ネタやスクラッチ、SEの数々が、アルバムの統一感に寄与しているといえるだろう。
編集の魔法がもたらした新たな響き
さらに〈編集〉の手が入っていることも、この作品の奇妙さに拍車をかけている可能性がある。ディラが個人的に制作したビートテープであった本作のオリジナル版は当初、アルバムにするにはいささか短かすぎたという。ストーンズ・スロウ・レコーズのオーナーであるピーナッツ・バター・ウルフはそのままのリリースを提案したそうだが、結局同レーベルのアートワークなどを担当するジェフ・ジャンクが、ディラのオリジナル版のCDをアルバムに見合う長さにする編集作業を行うことになった。ディラがPro Toolsで制作した元ファイルには触れられないため、任意のトラックの抜き差しや音質の変化は求められなかったわけだ。ジェフは各曲の長さを伸ばすため、CDの音源を切り刻み、様々なループを延伸するだけに努め、ディラに確認を取りながら編集作業を進めたという。
完成版とオリジナルのディラのCDを比較することはできないが、たとえば“People”のほとんどパーカッションだけのリズムが執拗にループされたり、“Glazed”のわずか1秒にも満たない2小節のループがこれもまた偏執狂的に繰り返されたり、“Stepson Of The Clapper”で定番のブレイクビーツネタの新たなる響きを捉えたりする奇妙さは、ジェフの編集の賜物かもしれない。つまり、これらが数秒ほどのインタールードとして収録されるのではなく、編集のマジックによって1分間以上の楽曲として再構成された結果、ディラのふとした奇抜なアイディアが、拡大解釈されるようにわたしたちに届けられているのではないだろうか。
私生活に対する音楽的反抗
ディラが気の向くままに作ったビートテープは、溢れんばかりの自由さと、その自由を行使した結果の奇妙さで満ちていた。そのような自由さは、この時期の病気と向き合うなかで自由にならないディラの私生活に対する音楽的反抗だったのかもしれない。事後的に本作を巡る環境を俯瞰しているわたしたちは、そんなふうに邪推したくなってしまう。だがその答えはないし、あったとしても本作を成り立たせている本質的な要素ではないだろう。仮にこの作品の本質に近づく手段があるとすれば、それはただひとつ、いくら聞いてもわかった気になれないこの奇妙な円盤を、繰り返し味わうことではないだろうか。
