50年前の1976年3月15日、キッスが代表作にして名盤『Destroyer』をリリースした。ライブアルバム『Alive!』で成功のきっかけを掴んだ彼らの次なる課題は強力なスタジオ作品を作ること。そんな挑戦を見事に成就させた本作の制作背景や魅力を音楽ライター増田勇一に解説してもらった。 *Mikiki編集部

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KISS 『Destroyer』 Casablanca(1976)

 

ライブは強烈なのにアルバムが貧弱

ライブの動員や若年層からの支持は上昇傾向にありながら、キッスの初期3作品はヒットに恵まれず、マネージメントの財政面はまさしく火の車だった。そうした苦境から脱する切っ掛けを作ったのが2枚組ライブアルバム『Alive!(アライヴ!~地獄の狂獣)』(1975年)の起死回生のヒットだったことは以前にも書いたが、それによりバンドに対する認知は飛躍的に広がり、米国のティーン向けロック誌「Creem」の読者人気投票ではローリング・ストーンズに次ぐ第2位にランクされるほどの人気を獲得するほどになった。

その局面で当時のマネージャー、ビル・オーコイン(2010年に他界)が考えたのは、大掛かりなステージセットの導入と、それまでは縁の無かった著名プロデューサーの起用だった。そこで白羽の矢が立ったのは、アリス・クーパーの一連の作品や、ルー・リード、ピンク・フロイドなどとの仕事歴で知られるボブ・エズリンだった。エズリンにはそれ以前にトロントのテレビ収録スタジオで4人と遭遇したことがあり、彼はその際の印象を「見るからに〈地球上でいちばん巨大な人間達〉という感じだった」と振り返り、さらに次のように語っている。

「実はその少し前に、あるキッスファンから連絡を受けていた。〈彼らのライブは最高に強烈なのにアルバムがどうも貧弱なんです。あなたがプロデュースしてくれたら絶対にいいものになると思うんですが〉という内容だった。そこで私は彼らに自己紹介し、〈もしも君たちが従来のアルバムの音に満足できていないのなら電話をくれ〉と伝えた。するとその数ヵ月後、実際に電話がかかってきたんだ」

 

ボブ・エズリンの厳しい〈しごき〉による成長

キッスは1975年12月、エズリンと共にスタジオ入りし、4枚目のオリジナルアルバムの制作を開始。それまでのプロデューサーとは異なり、彼はホイッスルを吹いてメンバーの注意・集中を促すような、コントロール型の人物だった。のちにキッス自体も〈軍隊のように統制のとれたバンド〉などと形容されるようになったが、当時のエズリン指揮官のもとでの妥協を許さぬ制作環境が、ジーン・シモンズとポール・スタンレーが自分たちなりのバンド操縦術を確立していくうえで何らかの影響をもたらしていた部分もありそうだ。

とはいえそのジーンとポールも当時はエズリンにこっぴどくやられていた。スタジオ作業中のある日、フェードアウトしながら終わる曲の演奏を自身の判断で止めたジーンに対し、彼は「誰がそこで止めていいと言った?」と告げたのだという。ジーンはのちにその出来事について「他人にそんな口をきかれた経験は一度もなかった」と述懐し、その言葉に落ち込まされたことを認めている。

また、ポールは、自分で歌うために書いた“God Of Thunder And Rock And Roll”という楽曲をいたく気に入っていて、それを録音することを楽しみにしていたが、エズリンはそれをジーンに歌わせるべきだと主張。結果、同楽曲は原曲よりもテンポを落としてヘヴィに改造され、ジーンの歌唱により“God Of Thunder(雷神)”として生まれ変わっている。同楽曲は、ステージ上でジーンが血を吐く演出と共に披露されるようになり、彼の悪魔的キャラクターが確立されるうえでも大きな役割を担うことになった。エズリンの大胆な判断がなければ、そうしたことも起こり得なかったというわけだ。

さらにエズリンに関しては、遅刻常習犯だったエース・フレーリーがスタジオに現れない場合に備えて外部のギタリストを常に手配していたとの話もあるし、ピーター・クリスの場合も、音楽理論的な部分で彼からかなり徹底的に指導を受けることになった。つまりこの第4作の制作期間中に、メンバーの誰もがエズリンとの衝突を経ていて、苦い思いを味わってきたのだった。しかしそうした経験が『Alive!』の成功で少しばかり有頂天になっていた彼らに実際の身の丈を自覚させ、プロフェッショナルな制作環境の厳しさを教えることになったともいえるのだ。