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編集の魔法がもたらした新たな響き

さらに〈編集〉の手が入っていることも、この作品の奇妙さに拍車をかけている可能性がある。ディラが個人的に制作したビートテープであった本作のオリジナル版は当初、アルバムにするにはいささか短かすぎたという。ストーンズ・スロウ・レコーズのオーナーであるピーナッツ・バター・ウルフはそのままのリリースを提案したそうだが、結局同レーベルのアートワークなどを担当するジェフ・ジャンクが、ディラのオリジナル版のCDをアルバムに見合う長さにする編集作業を行うことになった。ディラがPro Toolsで制作した元ファイルには触れられないため、任意のトラックの抜き差しや音質の変化は求められなかったわけだ。ジェフは各曲の長さを伸ばすため、CDの音源を切り刻み、様々なループを延伸するだけに努め、ディラに確認を取りながら編集作業を進めたという。

完成版とオリジナルのディラのCDを比較することはできないが、たとえば“People”のほとんどパーカッションだけのリズムが執拗にループされたり、“Glazed”のわずか1秒にも満たない2小節のループがこれもまた偏執狂的に繰り返されたり、“Stepson Of The Clapper”で定番のブレイクビーツネタの新たなる響きを捉えたりする奇妙さは、ジェフの編集の賜物かもしれない。つまり、これらが数秒ほどのインタールードとして収録されるのではなく、編集のマジックによって1分間以上の楽曲として再構成された結果、ディラのふとした奇抜なアイディアが、拡大解釈されるようにわたしたちに届けられているのではないだろうか。

 

私生活に対する音楽的反抗

ディラが気の向くままに作ったビートテープは、溢れんばかりの自由さと、その自由を行使した結果の奇妙さで満ちていた。そのような自由さは、この時期の病気と向き合うなかで自由にならないディラの私生活に対する音楽的反抗だったのかもしれない。事後的に本作を巡る環境を俯瞰しているわたしたちは、そんなふうに邪推したくなってしまう。だがその答えはないし、あったとしても本作を成り立たせている本質的な要素ではないだろう。仮にこの作品の本質に近づく手段があるとすれば、それはただひとつ、いくら聞いてもわかった気になれないこの奇妙な円盤を、繰り返し味わうことではないだろうか。