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苦難のときを超え、満を持して全曲録音に挑んだチョン・キョンファのバッハ

 幼いころから音楽に類まれなる才能を示し、「神童」と称され、特別な教育を受けて実力を伸ばしてきた韓国出身のヴァイオリニスト、チョン・キョンファ。12歳で渡米し、ジュリアード音楽院で名ヴァイオリニストたちに師事し、19歳でエドガー・レヴェントリット国際コンクールに優勝して国際舞台へと躍り出た。以来、怖いまでの集中力に富む、深い表現力に根差した完璧なる演奏は各地で高い評価を得、全身全霊を賭けて演奏する情熱的な姿勢に世界中のファンが魅了された。

 だが、2005年に指のケガに見舞われ、5年間まったくヴァイオリンが弾けない状況に陥る。この間は後進の指導にあたるなど若い音楽家の育成に尽力した。復帰は2011年12月。演奏は洞察力に富み、情感あふれる響きとなり、ヒューマンな音楽へと変貌を遂げた。いまや各地から演奏のオファーが相次いでいる。

 2013年6月にはリサイタルとしては15年ぶりの来日公演が実現、聴衆に深い感動をもたらした。さらに2015年にも来日し、4年間デュオを組んでいるケヴィン・ケナーとのデュオでベートーヴェンのソナタをじっくりと聴かせた。

 チョン・キョンファといえば、野生動物を思わせるような本能的な演奏をする人、俊敏で情熱的で一気に天に駆け上がっていくようなはげしい演奏をする人、というイメージが定着していた。しかし、インタヴューではひとつひとつの質問にことばを選びながら真摯な答えを戻し、静かにゆったりと話す。ただし、時折熱を帯びてくると声高になり、早口になり、口調も音楽と同様テンションが上がっていく。そんな彼女が長年の夢であるJ.Sバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ』全6曲をリリースした。

CHUNG KYUNG WHA バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ Warner Classics(2016)

 「この作品は私の人生の糧ともいうべき作品。ニューヨーク時代に14歳くらいで弾き始めたけど、本当に理解することが難しかった。特にフーガは大いなるチャレンジだったわね。全体の流れを大切に、ヴィブラートを抑制しながら弾いていく。自分のなかで各々の作品を完全に咀嚼し、音にしていく過程はとても困難だった。でも、長年に渡り、ずっと弾き続け、勉強を続けてきたわけ。今回は勇気を出して、いま演奏するべきだと自分にいい聞かせ、全曲録音に挑戦したというわけ」 

 とりわけ愛しているのが、ソナタ第3番のフーガである。フーガに関しては、当初からさまざまな悩みを抱え、あらゆる奏法をガラミアン教授から学び、自身で内容と解釈と奏法をひたすらきわめていった。ここに聴くフーガは、長年の研鑽と研究の賜物である。

 「このバッハは、聴いてくれる人たちへの私からの“ギフト”なの。私が楽器を弾けない時期にバッハに救われ、音楽から贈り物を与えられたことを考え、今度は私が演奏で多くの人に贈り物を届けたいと思ったの」

 彼女は、ヴァイオリンが弾けなかった時期に、頭のなかでバッハの楽譜と対峙したという。楽器に触らず、楽譜の隅々まで読み込み、イメージを広げていく。その作業が、いまは大きな成果と役割を果たしていると語る。

 「演奏家は、どうしても楽譜を深く読むことより、先に楽器を手にして弾き始めてしまう。でも、譜面をじっくり読み、頭のなかで音楽を鳴らすこと、想像すること、考えることはとても大切なことなの。楽器が弾けない時期に、私はこの精神を学んだのよ」

 ここに聴く全6曲は、楽譜の読み方を変え、作品のイメージをふくらませ、バッハにひたすら近づいた演奏。ひとつのソナタ、ひとつのパルティータがチョン・キョンファの声となり、語りとなり、歌となって聴き手の心にゆっくりと浸透してくる。

 「こうした偉大な作品は、人生とは何か、なぜ私はここにいるのか、どこからきてどこへいくのか、どう生きるべきかという人生の命題を突き付けてくる。それを私は音楽で表現し、聴衆とその精神を分かち合いたいのです」

 まさに彼女の心からの“ギフト”である。

 


LIVE INFORMATION

チョン・キョンファ/J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲演奏会
○1/23(月)18:30開演 会場:福岡シンフォニーホール(福岡)
○1/25(水)19:00開演 会場:ザ・シンフォニー・ホール(大坂)
○1/28(土)18:30開演 会場:サントリー・ホール(東京)
http://wmg.jp/artist/kyungwhachung/