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 ところが現状はまるでそうなっていない。以前よりもかえって悪いだろう。1960年代から90年代にかけては、政府、公共機関、放送局、レコード会社、演奏団体、音楽鑑賞団体等が、自国の文化の発展にはクラシック音楽の分野でも新しい創作が欠かせぬとの目的意識を、今よりは幅広く共有していた。でも、そういうコンセンサスは、もはやすっかり弱っている。現代美術なら、二年毎のビエンナーレや三年毎のトリエンナーレの企画運営を地方自治体が競っている。アニメやゲームの文化に対しては、クール・ジャパンだとか言って、公的資金がふんだんに投じられている。雅楽や能や狂言や歌舞伎もそれなりに守られている。クラシック音楽の演奏家も、十分ではないにしても様々な援助を受けているだろう。しかし、クラシック・現代音楽の作曲家は? ポピュラー・ミュージックと伝統音楽の谷間に堕ちて、存在意義を忘却され始めている気がする。

 その意味で、今回の企画は注目に値する。湯浅と一柳という人間国宝的大作曲家を組み合わせて、この国の音楽史の財産を確認させようという趣旨はもちろん素晴らしい。が、それだけではない。催しを主催する団体が日本作編曲家協会なのだ。クラシック・現代音楽系の作曲家が長年集ってきた日本現代音楽協会でも日本作曲家協議会でもない。ポピュラー系やセミ・クラシック系の、大切な仕事をしながら世間から軽んじられがちだったアレンジャーが主体となって結成され、そこに、現代音楽の系統まで含む、いろんな畑の作曲家も加わって、組織を大きく強くしてきたのが、日本作編曲家協会である。実績に対し評価の不十分だった編曲家たちの思いが基にある団体だから、常識に異議申し立てをしたり、大切なことを社会に発信しなければいけないという、組織としてのカルチャーを持っているのだろう。現在の会長は服部克久、副会長は小六禮次郎と三枝成彰。そして常任理事のひとりに猿谷紀郎、理事のひとりに北爪道夫が入っている。