〈人間の果て〉へ向ける視線
フランスダンス界の大御所、マギー・マランの出世作「May B」が、19年ぶりに日本で上演される。フランスのダンスのそれまでの常識をひっくり返したといわれる作品だ。いったい本作の何が衝撃だったのだろう?
ステージには10人の男女。みな顔や身体に粘土を塗りたくり、つけ鼻やつけ耳を施していたりする。粘土はひび割れ、老人の皺を思わせる。身に着けているのは薄汚れて灰白色となった寝巻きや下着だ。彼/彼女らが唸ったり、踊ったり、何かをガマンしたり、悶えたりしながらステージ上を右往左往する――というのが本作第1部のあらましである。彼/彼女らのしぐさは誇張というよりも対象に即した正確さの印象を与える。グロテスクであっても、表される感情はわれわれにもごく親しいものばかりだ。
美しさ、若々しさを前面に押し出すものだった初演当時のダンス界にとって、本作がスキャンダルになったのも無理はない。だが、それだけではない。彼/彼女らはいったい何者なのだろう? ここは養老院なのか、精神病院なのか、路上なのか? 彼/彼女らが社会から見捨てられ、朽ちていく人々であることは間違いない。ここでマランは排除を作り出す政治に鋭い眼差しを向けている。
カルナヴァルの音楽が地鳴りのように響いた第1部とはうって変わり、第2部には“死と乙女”や“交響曲第4番〈悲劇的〉”など、シューベルトの曲があふれる。ときに華やぐかと思えば、ときに生と死のあわいを垣間見せるのだ。舞台上では、小競り合いの後にコスプレパーティらしきものが始まる。ところがなんと、彼/彼女らが扮するのはサミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」のラッキーとポッツォや、「勝負の終わり」のハムとクロヴを思わせる人物たちなのだ!
そう、この作品はベケットに多大な影響を受けてもいる。最初と最後に発される「終わり、終わりだ、終わろうとしている、たぶん終わるだろう」という台詞も、まさしく「勝負の終わり」のものだ。ベケットの戯曲ではしばしば豊かとはいえない台詞が不自由この上ない肉体によって演じられる。マランは〈人間の果て〉ともいうべきベケットの寓意をしっかり受け止めているといってよい。
第3部では、ギャヴィン・ブライアーズ“イエスの血は決して私を見捨てたことはない”のホームレスの歌声に導かれ、彼/彼女らはどこかへ旅出とうとする。最初にあれだけ動きをともにしていた彼/彼女らもここで離散してしまうようだ。その姿は難民を思わせる。ここにはスペインから亡命してきたマランの両親の姿が投影されているのだろうか……。本作の示すさまざまなテーマは今もなお、むしろますますの輝きを放っている。
INFORMATION
マギー・マラン『May B』
2022年11月19日(土)・20日(日)埼玉・浦和 埼玉会館 大ホール
開演:15:00
お問い合わせ(SAFチケットセンター):0570-064-939
https://www.saf.or.jp/
2022年11月23日(水・祝)福岡 北九州芸術劇場 中劇場
開演:14:00
お問い合わせ(北九州芸術劇場):093-562-2655
https://q-geki.jp/
主催:彩の国さいたま芸術劇場/公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団(埼玉公演)/公益財団法人北九州市芸術文化振興財団(北九州公演)
共催:北九州市(北九州公演)
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)/独立行政法人日本芸術文化振興会
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本