音楽と音楽ビジネス
クインシー・ディライト・ジョーンズJr.は、1933年にシカゴで生まれている。母親のサラは銀行員で、父親のクインシーは大工でセミプロの野球選手でもあった。後にDNAを検査してルーツを辿ったところによるとジョーンズ家はアフリカ系の奴隷と欧州からの入植者の血を引くそうで、その移民の祖先には宮廷音楽家もいたという。それはともかく、母の歌う讃美歌に親しんで育ったクインシーの音楽への目覚めは、隣人の弾くピアノを聴いた5、6歳の頃に始まった。ただ、統合失調症を患って入院した母はやがて父と離婚し、幼いクインシーは弟と極貧の環境に置かれていたそうだ。しばらくして父は再婚し、継母の子どもたちを含む大家族になったジョーンズ一家は43年にワシントン州ブレマートンに移住。父が戦時下の特需から海軍の造船所に職を得たこともあって経済状況は安定したものの、継母に苛められた少年時代の体験は深いトラウマを残したという。
終戦後の一家はシアトルに移住。クインシーは学校に通いながらトランペットの腕を磨き、14歳の時にはバンドに加わって演奏するようになる。この頃には年齢を偽って参加したショウの帰りに自動車事故に遭い、同乗していたバンド仲間全員が目の前で死亡するという壮絶な体験もしたそうだが、15歳の時に出会ったレイ・チャールズら周囲の才能にも刺激され、音楽家として大志を抱くようになる。51年には奨学金を得て進んだシアトル大学を1学期で離れ、ボストンのシリンガー・ハウス(のちのバークリー音楽大学)へ進学。その後はトランペット奏者としてライオネル・ハンプトンの楽団に加入し、プロのキャリアをスタートした。53年にはアイゼンハワーの大統領就任式でも演奏しているというから凄い。
54年にハンプトン楽団を離れたクインシーは拠点をNYに移し、演奏や編曲などさまざまな仕事を引き受けながら徐々に名を広めていく。エルヴィス・プレスリーの最初のTV出演をサポートしたのもその頃だ。その後はディジー・ガレスピーのトランペット奏者/音楽監督として中東や南米のツアーに帯同し、帰国後にABCパラマウントと契約。自身の名を冠したバンドのリーダーとしてレコーディングのキャリアも踏み出している。57年にはパリに移ってナディア・ブーランジェとオリヴィエ・メシアンに音楽理論を学び、現地のレコード会社であるバークレーで音楽監督を務めた。
一方で、その頃の彼は以降のキャリアを決定づける出来事に遭遇する。18人のミュージシャンを率いたビッグバンドを結成して北米や欧州をツアーして好評を博するも、大人数を維持するのに十分な収入が得られず、経済的な事情からバンドを解散してしまったのだ。優れたバンドをやむなく失った経験は、彼に〈音楽〉と〈音楽ビジネス〉の違いを突きつけたそうで、以降のクインシーは音楽を追求するために音楽ビジネスの世界でも立場を確立していく。

彼がもっとも多忙だった50~60年代にはエラ・フィッツジェラルドやシャーリー・ホーン、ペギー・リー、ナナ・ムスクーリ、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントンらのアレンジャーとして活躍している。そのなかで、61年にクインシーはアフリカ系アメリカ人として初めてマーキュリーの副社長に就任。62年には代表曲となる自作の“Soul Bossa Nova”をヒットさせた。後に映画「オースティン・パワーズ」(97年)で使用された同曲は、日本でもさまざまに転用されたことでお馴染みだろう。そこからはプロデューサーとしても多くのアーティストを手掛け、なかでもレスリー・ゴーアとは先述の“It’s My Party”からミリオン・ヒットを連発した。64年にはシドニー・ルメット監督の招きで「質屋」の音楽を作曲。その成功を受けてクインシーはマーキュリーを退社してLAに移住、主に映画音楽やTVドラマなどの作曲家として多忙を極めていくことになった。なお、この頃に手掛けたTVドラマ「鬼警部アイアンサイド」(67年)のテーマ曲“Ironside”は、ヒップホップのネタとしても名高いものだし、日本では70年代になってワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」で使用され、近年は映画「キル・ビル」やバラエティ番組「ダウンタウンDX」で使われていて、そのスクープ感(?)の強い曲には多くの人が耳馴染みがあるはずだ。
そんななか、66年には最初の妻と離婚しているが、その結婚で授かった娘がジョリーである(アル・クーパー“Jolly”のモデル)。67年には女優のウラ・アンダーソンと再婚(そこで産まれた息子がヒップホップ・プロデューサーのQDIII)するも、彼女と74年に離婚した翌日には女優のペギー・リプトンと結婚するという奔放さ。そのバイタリティを示すかのように69年にはA&Mとアーティスト契約してリーダー作のリリースも開始していたクインシーだが、多忙ぶりが祟ってか74年に脳動脈瘤を発症して以降は、それまでのワーカホリックな生活を止め、大きな仕事をマイペースに手掛けていくスタンスへのシフトを余儀なくされている。