
家で練習していたら、隣人が煉瓦を投げ込んでくる
――これまでインタビューした人は、ロックでギターを始めて、どこかでジャズに出会うきっかけがあって、っていう人が多かったけれど、ジャンルもプロ活動も、最初から垣根がなかった感じなんですね。
「そうね、ロックを聴き始めたは12歳ぐらいから。メタリカを見つけて、夢中になったの。最初に聴いたのは『Ride The Lightning』(1984年)ね。(“Fade To Black”のリフを弾きながら)これ、クラシックみたいなギターリフでしょ。だから、こっちの世界にも行ける!って思って。

最初に弾いたメタルの曲は、たぶんこれか、“One”。(“One”のイントロのリフを弾きながら)う~ん、カッコいい、なにこれ!と思いながら弾いてました。 “Eye Of The Beholder”とか(イントロを弾く)、あと、これも(“Harvester Of Sorrow”のイントロを弾く)。12歳ぐらいの時に弾いてたのはメタリカだけ。その後、ブラジル音楽に戻ったけど、メタルもやりながらだったね。ははは!」
――その時期はブラジルにいて、周りではメタルって流行ってたんですか?
「学校の生徒みんなが聴いてたね。メタリカファンとアイアン・メイデンファンのグループがあって、それで喧嘩して(笑)。面白かったね。私はメイデンも好きだったし、バンドで“The Trooper”とか“The Number Of The Beast”とかもやってたよ。でも、やっぱりメタリカが好き。トラディショナルヘヴィメタルと、モダンヘヴィメタルの違いだね」
――バンドをやり始めたのは?
「バンドは15歳から。メタリカのカバーをする、スウィート・サイレンスっていうバンドだった。スウィート・サイレンスは、メタリカが一番最初にレコーディングしたスタジオの名前なのね。それぐらい、オタクだったの。それは同世代の人達とのバンドで、ベーシストはいなくて、ツインギターとドラム。途中でベースが入ったこともあったけど、なかなかベースがいなかった。楽しかったね。
練習も毎日してた。家にドラムセットを置いて練習してたもんだから、(騒音の問題が)大変だったよ。隣の住人がいつも、煉瓦を持って自分の家から投げ込んでくるの。練習していた曲も“Kill ‘Em All”とか、“Whiplash”だったから、やばいよ(笑)。メンバー皆、メタリカの大ファンで、全部コピーしてたね。その時レコーディングしたものが残ってるけど、カンサスとか、クイーンとか、ドリーム・シアターもコピーしていたよ。ドリーム・シアターの影響もかなりあったね」
――プロとして演奏し始めたのは、いつ頃なんですか?
「演奏は16歳ぐらいから。教えている学校に色々なミュージシャンが来ていたから、サンバのグループや、カントリーミュージックの仕事を頼まれた。ツアーに行ったり、アーティストのサイドミュージシャンとして演奏をしたり。18歳から兵役があって、途中で2年ブランクがあったけど、戻ってからまたレッスンと演奏を再開して。とても生徒が多くて、朝の10時から夜の10時まで、休憩1時間を除いてびっしりレッスンだったよ」
――ギターを習う人、多いんですね。
「日本人は大体ピアノで楽器を始めるけど、ブラジルでは、最初に手に取る楽器がギター。家に絶対ギターがあるんです。ギターの国だね。スペインには負けるかもしれないけど、大概の人は弾ける。私のお父さんも弾いてたよ。練習してるのを聴いてて、〈なんかちょっと変な音だよ〉って言ってきたりするんだ」
バンドに入ってくれませんか? アパートも用意します!
――日本に来てからは、順調に仕事があったんですか?
「24歳で日本に来た理由は、家族を支えないといけないからだった。なので、2年間日本の工場で働いて、全く音楽をやってなかったんです。2006年ぐらいにストレスが溜まって、メンタルの病気になった。でも金銭面の問題はいち段落して、〈これから何をしようかな〉って思った時にギターを買って、ちょくちょく練習はしていた。でも音楽で仕事するなんて、全然考えてなかった。日本語ができなかったし、コネクションもなかったし。
2006年の終わりぐらいに、ブラジルから遊びに来た友達が、〈名古屋の知り合いのブラジルのお店に、バンドもいるから遊びに行こうよ〉と誘ってくれて。〈行きたくない〉って断ったんだけど、何度も誘ってくれて、気分がのらなかったけど行ったんですね。そこでバンドの人に、〈あなたは何か楽器をやってるの?〉って聞かれたから、〈ギターを少し〉って言って弾いたら、〈どこで演奏してるの?! もし良かったら、私のバンドに入ってくれませんか? 給料を払います! アパートも用意します!〉って言ってくれて」
――おおお!
「ね? こんなミラクルがあるのかと。そこは名古屋のウルバナ・ラティーナっていう店で、ブラジル音楽をやっている店でした。すぐ工場に電話して仕事を辞めて、名古屋に引っ越しして2007年から2010年まで、ずっとその店で演奏してたの。その友達がいなかったら、彼がうるさく〈行こう行こう!〉って言わなかったら、今の自分はなかった。本当に感謝してます。
2011年から2015年までは、また一回音楽活動がストップして、ブラジル料理を作ってたんだけど、その間にたまに東京に演奏に来ていて、それで友達も沢山できたので、2016年に1人で東京に来ました。料理屋さんのアルバイトをしながら演奏活動を始めて、2018年ぐらいに色々大きな仕事が入ってきた。松田聖子さんとか、渡辺貞夫さんとかの仕事ね。それで音楽だけでやっていけるようになった」
――何度かキャリアが途絶える時期があったんですね。
「工場で働いている時は、〈音楽はやらない〉って強く思っていたけど、また音楽に戻った。2回目に忙しくなってやめた時は、〈たぶんまた音楽に戻るだろうな〉と思ったら、戻った。(音楽からは)もう離れない。離れたいと思っても、もう離れられないよ」