初めて自分を見せようと思った
宇多田自身が語るように、青には幅がある。水色、紺、地球の色、暗さ、落ち込みとしての青、そして〈青春〉という言葉に含まれる若さ。黒や白のように意味が固定されず、子供っぽさから大人びた雰囲気まで、さまざまなものを受け入れてしまう。その幅を自分の歌詞世界で表現することで、宇多田は青空への畏怖を、青を自分の色として引き受ける契機へと変えていった。青空への畏怖の克服と、青の受容。それこそが、宇多田ヒカルが『ULTRA BLUE』において達成したことだった。
この〈青の受容〉は、宇多田が『ULTRA BLUE』について「初めて自分を見せようと思った」という趣旨のことを語っている点とも深く結びついている。それまでの歌詞は、自分を隠しながら、ちらっとヒントを出すようなものだった。だが本作では、隠していたものが見えてしまう不安を超えて、むしろ自分を見せることができたと語っていた。
その具体例として重要なのが、“Be My Last”における〈母さんどうして〉から始まる冒頭の3行である。宇多田は、この3行で自分の言いたかったことが言い切れてしまったと語っている。母について多くを説明するのではない。むしろ言葉を最小限に絞ることで、自分のもっとも柔らかく傷つきやすい場所を、歌詞の冒頭にして曲の中心に置くことができた。この母と父のもとに生まれ、自然と音楽を作り始め、歌うことを引き受けてしまった人間の宿命。その私的な告白を、ポップソングとして他者に渡せる形で差し出している。
この感覚は、のちに“花束を君に”へと繋がっていく。母の死という極めて私的な出来事を、〈母〉ではなく〈君〉へ宛てた手紙として書くことで、宇多田は私性と普遍性をより深い形で両立させてみせた。
〈私ともう一人〉という閉じた関係性の殻を破り、脆い部分を開示することは、自分を取り囲む巨大な世界の中に生身の自分を投げ出すことでもある。こうした自己理解の深化は、彼女の〈自分と世界〉の関係や〈時間〉の捉え方の変化とも響き合っている。宇多田はこの時期の楽曲について、従来の〈私ともう一人〉という閉じた関係性から、〈中心にいる私〉の周りに過去や未来、世界のシステムが巨大な円となって渦巻く〈ひとつの小惑星〉のような世界観への移行を語っている。
過去を歪めたり美化したりせず「過去も現在も未来も同じ気持ちで見てあげたい」という彼女の言葉は、単なる精神論ではない。宇多田ヒカルがデビューして間もない頃にアンリ・ベルクソンの「時間と自由」を読んでいたことは、ファンの間ではよく知られている。その後の彼女が「人生なんてただのイメージで、あるのは今日の過ごし方だけ」と〈#ヒカルパイセンに聞け〉で答えているとき、彼女が見つめているのは、時計のように均一に流れる直線的な時間ではない。まさにその小惑星のなかで、現在という瞬間にすべてが折り重なる〈生きてきた時間の厚み〉なのだ。
それは、カルロ・ロヴェッリが「時間は存在しない」で語る、時間を絶対的な流れではなく、出来事同士の関係の中で立ち上がるものとして捉える感覚とも響き合う。もう目の前にいない人の言葉や存在も、単なる空白ではなく、現在の私を形作る愛着や痛みとして働き続ける。ロヴェッリにとって、そうした肉体の不在に関係なく受け継がれ、未来の誰かに働きかけ続けるものが物理法則に関する理論体系であるならば、宇多田ヒカルにとってのそれは、歌うことであり、曲を作ることになるだろう。