ヘンリー・ストーンが築いた帝国と、多くの才を生んだマイアミ・サウンドの真髄

 南国気分溢れる陽気なサウンド。ディープでレイドバックしたフィーリング。現在もパーティー・ミュージックの発信地であり続けるUS南部はフロリダ州マイアミの70年代を賑わせたのが、レーベル/プロダクション/ディストリビューターとして数多くの作品を送り出したTKである。マイアミのハイアリア地区に設立され、オフィス上階のスタジオを仕切るテリー・ケインのイニシャルを取って名付けた同社は、青地にパームツリーをあしらったトロピカルなレーベル・デザインを掲げ、〈マイアミ・ソウル=TK〉というイメージを揺るぎないものとした。が、30以上もの傍系レーベルを抱え、さまざまな音楽を扱ったTKの個性は、KC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドに代表されるディスコに留まらない。TKという名が付く前には配給される側にも立ち、その成り立ちや変遷も複雑だった。

 創立者はヘンリー・ストーン。1921年にNYで生まれ、2014年に93歳で大往生を遂げた彼は、40年代後半にLAでレコード業界入りした後、マイアミに移住して配給会社を設立している。50年代に設立したロッキンではレイ・チャールズの曲も録音。並行してジェイムズ・ブラウンと親交があったストーンは、JBのバンドによる演奏のナット・ケンドリック&ザ・スワンズ“(Do The) Mashed Potatoes”(60年)を、新たに設立したデイドから発表。これがアトランティックの目に留まり、以後、同社との関係を強めていく。ちなみにJBとも関係は続き、JBとストーンはブラウンストーンを設立してボビー・バードらの曲をリリース。後にJBがTKから“Rapp Payback (Where Iz Moses)”(80年)を出したのもそんな縁あってのことだろう。

 結果的にJBに救われる形となったストーンは、足場を固めるべくハウス・バンドの結成に着手。そして、自身主宰のマーリンからバンドでデビューしていたスティーヴ・アレイモを片腕として67年頃に設立したレーベルが、後にアトコに配給されるアルストンだった。当時デイドからはバンドに加わった(ベニー・)ラティモアも登場しているが、ウィリー・クラークと組んでマイアミ・ソウルの名曲を生み出していくことになるクラレンス・リード、さらにそのリードらが発掘したベティ・ライトを迎え入れ、アルストンは大躍進。ベティの“Clean Up Woman”(71年)も同レーベルからのヒットで、ここでギターを弾いていたリトル・ビーヴァーとスヌーピー(・ナサエニル・)ディーンは、それぞれストーンが持つキャット、ブルー・キャンドルから作品を発表した。ブルー・キャンドルは、レア・グルーヴ文脈で人気の高いオール・ザ・ピープル“Cramp Your Style”(72年)を出したレーベルとしても近年注目を集めている。


 

 さらにアルストンからはバハマ出身のビギニング・オブ・ジ・エンド“Funky Nassau”(71年)も大ヒット。カリビアンな要素を持ち込んだ同グループを筆頭に〈マイアミ詣で〉的な現象も起こるなか、ゴールドワックスにいたティミー・トーマスがグレイズから出した革新的な名曲“Why Can’t We Live Together”(72年)には〈TKプロダクション〉のロゴが刻まれ、これが後にストーンの諸レーベルを統轄する会社/レーベルのTKとなるわけだ。そこで新たなバンドとして登場したのが、ハリー・ウェイン・ケイシーとリチャード・フィンチの結成したKC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドである。“That’s The Way (I Like It)”(75年)に代表される、バンド名通りに陽気な曲をヒットさせた彼らの勢いに乗じて、74~75年にはジョージ・マクレー“Rock Your Baby”(TK原盤)、リトル・ビーヴァー“Party Down”やグウェン・マクレー“Rockin’ Chair”(共にキャット原盤)、ラティモア“Let’s Straighten It Out”(グレイズ原盤)といった名曲が続々と登場。ベティ・ライトの活躍も続き、スカやカリプソなどの要素を交え、ディスコとサザン・ソウルを絶妙なバランスで両立させながらマイアミ・ソウルを全国区に知らしめていく。

 ディスコ・ブームが本格化した70年代中~後期には、やはりダンス・ナンバーが目立った。ドライヴからのピーター・ブラウン“Dance With Me”、T・コネクションも籍を置いたダッシュからのフォクシー“Get Off”、フレデリック・ナイトが主宰したフアナからのアニタ・ワード“Ring My Bell”などはTKを世界的に有名にしたヒット曲だろう。波に乗るTKは12インチ専門のTKディスコも始動。一方で、ジョエル・ダイアモンドが主宰するフィリーのシルヴァー・ブルーも配給し、その絡みで元インヴィテーションズのルー・カートンのソロをアルストンから出すなど、ディープ・ソウル方面のサポートも手を抜いていない。抱えるレーベル数も膨大になり、クラウズからはボビー・コールドウェル、ボールドからはリオン・デボウズやF.A.T.、ファビュラスからはリオン・ウェア、クライテリア・スタジオが設立したグッド・サウンズからはスパッツやチーズらの作品をリリース。ウィルソン・ピケットのウィキッド、クラレンス・リードのリードズ・ワールド、ブラッド・シャピロのケイヴェットなどもTK傘下に収まっていた。

 こうしてメジャーを脅かす存在となったTKだが、ディスコ・ヒットに頼っていたぶん、ブーム沈静化の際に煽りを食ったのは仕方ないだろう。やがて所属アーティストの多くもメジャーに移籍。ストーンはサニーヴューを設立するも81年には破産宣告しており、TKはその幕を下ろす。とはいえ、彼らのパーティー・マインドは形を変えて受け継がれていき、2000年代にはジョス・ストーンのアルバムにTKの要人が参加したり、そこに関わったベティ・ライトはルーツのバックアップで往年のマイアミ・ソウルを再現してもいた。そして今年、ジョージ・マクレーも新作を発表。ヘンリー・ストーンの魂は、いまもしっかり受け継がれているのだ。

★Pt.2〈復刻の進むTKのディスコグラフィー〉はこちら

 

GEORGE McCRAE
TKを代表する男はいまも健在だ!

 TKを代表する男性ソロ・シンガーとして、ラティモアと並んで名が挙がるのがジョージ・マクレーだ。リズムボックスのイントロから心躍る74年の大ヒット“Rock Your Baby”でディスコ・シンガーというイメージが定着したが、そのキャリアは長い。1944年にフロリダ州で生まれた彼は、まずジヴィン・ジェッツというグループで活動。その後、海軍時代に知り合ったグウェン(・マクレー)と63年に結婚し、地元のクラブでデュオとして活動するうちにヘンリー・ストーンらに見初められてアルストンと契約している。が、70年前後にデュオでのシングルは売れず、ソロとして地道に活動を続けるなかでようやくヒットしたのが“Rock Your Baby”だった。テナー・ヴォイスが軽快なディスコ・サウンドとマッチしたのだろう。同名のアルバム(74年)と続くセルフ・タイトル作(75年)は、当時波に乗るKCアンド・ザ・サンシャイン・バンドのバックアップで、自身の絶頂期をTKの黄金期と共に迎えた。

GEORGE McCRAE 『Love』 Popmi(2016)

 75年にはグウェンとのデュオ盤『Together』も発表。クラレンス・リードらの制作で、ふたりのディープな資質を活かした快作だったが、離婚問題もあってか、76年の『Diamond Touch』では心機一転、グレッグ・ダイアモンドと組んでNYディスコの風を浴びる。以降はカナダへの移住やレーベル移籍を経て、ディスコ・イメージを求められながらヨーロッパを中心に活動を続けていった。が、80年代に居を構えたオランダで録音した今回の新作『Love』では、自身のディープな側面も意識しつつ往年のTKグルーヴを再現。R&Bシンガーである娘のリーアとソフィアを従え、持ち前の高い声で余裕たっぷりに歌う71歳は、まだまだ枯れちゃいない。 *林 剛

 

 

KC AND THE SUNSHINE BAND
TKの絶頂を導いた最強のパーティー集団

 ここ数年で〈ディスコ〉はポジティヴな用語として返り咲いた感もあるが、そうなる前は懐メロ的でかっこ悪い言葉でもあった。で、そうした往年のノリを象徴するのが、このバンドの“That’s The Way (I Like It)”だ。知られすぎたがゆえに陳腐に捉えられ、売れすぎたせいで何となく軽視されている。KC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドはそんな存在と言っていいかもしれない。

 

 ただ、人種混成の編成とキャッチーなソングライティングによってファンクやラテン、カリビアンなどを豪快に融合した彼らは、実にTKらしいミクスチャーなパーティー・バンドであった。73年にフロリダ州ハイアリアで結成されたこのグループは、レコード店などで働いていたKC(ハリー・ウェイン・ケイシー)と、エンジニアのリチャード・フィンチが出会って誕生している。裏方仕事も行いつつ翌年にTKからデビュー。徐々に人気に火が点き、75年には“Get Down Tonight”が初の全米1位に輝く。その後1年のうちに件の“That’s The Way (I Like It)”と“(Shake, Shake, Shake) Shake Your Booty”が続き、1年で全米No. 1を3曲輩出するというビートルズ以来の快挙も達成。彼らの快進撃はTKをかつてない絶頂へと押し上げ、それはディスコ・ブームの大きな位置を占めることとなった。

 奇しくも80年代初週の全米1位曲となる“Please Don’t Go”(79年)まで続くも、そこからは失速。ブームが終わっていく状況下にあって、享楽的なディスコの権化たる彼らは槍玉に上げやすい名前だったのだ。結果、TKの倒産に伴って彼らはエピックに移籍し、KCのソロに近い状態へと移行。82年にはシンセ・ポップ調の“Give It Up”で初の全英1位を獲得するも、85年にKCが引退を表明してバンドは消滅する。……が、90年代に入ると復帰したKCはバンドを再編。誰もが知る楽曲の数々を活かし、現在に至るまでマイペースに活動中だ。 *出嶌孝次

 

 

CLARENCE REID
マイアミ・ソウルを絶頂へ導いた奇才

 クラレンス・リードはふたつの顔を持つ。ひとつはマイアミ・ソウルのソングライター/プロデューサーとしての顔、もうひとつはブロウフライの名で下ネタを連発する漫談師としての顔だ。ウィリー・クラークと組んでベティ・ライトに提供した“Clean Up Woman”をはじめ、グウェン・マクレー“Rockin’ Chair”、マイアミ“Party Freaks”といった名曲を書き、クラークやスティーヴ・アレイモらと並んでTKの音楽番長となったのは、いわば表の顔。また、ジョージア出身のリードはマイアミに移住後、10代の時からデル・マイアズで活動し、60年代には複数のインディーからソロ作品も連発するなど、正統派なソウル歌手としての顔も持つ。ベティ・ライトのブレーンとなった頃には、その流れで自身もアルストンと契約、69年にはファンキーなソウル曲を含む『Dancin’ With Nobody But You Babe』を発表。73年作『Running Water』では後にルー・カートンが取り上げる“New York City”のようなモダンな曲を歌い、76年に発表した『On The Job』もグルーヴィーな快作だった。

BLOWFLY 『77 Rusty Trombones』 Saustex(2016)

 以後、女性グループのリード・インクを手掛け、自身のリードズ・ワールドをTK傘下で運営しているが、そうしたTK仕事の合間を縫って矢継ぎ早に出していたのがブロウフライ名義のアルバムである。内容は下品なセンスを活かした(?)放送禁止用語連発のラップのようなもので、2ライヴ・クルーのルークに与えた影響も大きい。R・ケリーが崇高な詩人に思えるほどの直截的な下ネタは最新作にして遺作となった『77 Rusty Trombones』でも健在で、ケリーの清らかなバラードを“I Still Believe My Dick Can Fly”(俺のナニはまだイケるはず)などと朗唱。結局、今年初めにエロ爺のまま76歳でこの世を去ったリードだが、彼がTK~マイアミ・ソウルに残した功績は今後も尊ばれていくだろう。 *林 剛

 

 

FOXY
レーベル後期を賑わせた狐たち

 お抱えのスタジオ・ミュージシャンたちが集められたバンドという意味ではKC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドの面々と成り立ちは近く、実際にその勢いを受け継ぐべく若手の腕利きたちによって組織されたのがフォクシーだ。革命後に渡米してきたキューバ移民のイッシュことイシュマエル・エンジェル・レディスマ(ヴォーカル/ギター)を中心に、アーノルド・パゼーロ(ベース)やジョー・ガルドー(ドラムス)、リッチー・プエンテ(パーカッション/ギター)らが名を連ねたこの6人組(当初)は、76年にTK傘下のダッシュからデビュー。なお、リッチーはティト・プエンテの息子である。そんな血統もあってか先達以上に軽妙なラテン・ファンクを持ち味としたフォクシーは、78年のセカンド・アルバム『Get Off』から表題曲をR&Bチャート1位(全米9位)に叩き込み、一気にブレイクを果たす。“Get Off”における〈フーフー〉と脳天気な掛け声が、後のさまざまなダンス・ミュージックに波及しているのは言うまでもないだろう。

 

 79年には『Hot Numbers』と『Party Boys』の2タイトルをリリース(さらにイッシュのソロ作『Ish』もこの年に出ている)。ファンキーなインパクトを誇る表題曲がチャートで成功した前者に対し、後者は商業的には不発となってしまうが、イッシュのニューウェイヴ趣味とアイアート・モレイラを招いた本気のラテンなどが混在するロッキッシュでパーカッシヴなノリには一聴の価値あり。その後は新曲を含むライヴ盤『Live』(80年)を発表するも、TK自体の失速もあって81年に解散。いまとなっては時代の徒花のような扱いでもあるが、世界初CD化のブツも含め、この機会に彼らの真髄を堪能していただきたい。 *出嶌孝次