帝王マイルスをフュージョンの道へ誘った無冠のビッチ
マイルス・デイヴィスを夢中にさせた女――〈キリマンジャロの娘〉の邦題で知られるマイルスの68年録音作『Filles De Kilimanjaro』にてジャケットのモデルとして採用され、“Mademoiselle Mabry”という曲を捧げられた彼女は、同年にマイルス夫人となった。結婚生活はわずか1年という短さながら、モデル、歌手、ソングライターとして活躍したベティ・メイブリー改めベティ・デイヴィスは、ジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンをマイルスと引き合わせ、いわゆるエレクトリック・マイルス期の作品に大きな影響を及ぼした人物として知られている。69年に録音されたあの革新的名盤『Bitches Brew』もセッションの段階では『Witches Brew』と呼んでいたが、ベティの提案でタイトルを変更。アートワークを手掛けた画家のアブドゥル・マティ・クラーワインもベティの紹介だったという。
ジャズ・トランペッターとしてやや時代遅れになりつつあったマイルスを、音楽面だけでなくファッションも含めてイメージ・チェンジを促したというベティ。その関係はデビュー時のディアンジェロとアンジー・ストーンを彷彿とさせるが、結局、妻に影響を受けながらも服従させたかったマイルスの性格に嫌気が差したベティは離婚の道を選ぶ。そして、離婚後は後のティナ・ターナーやチャカ・カーンよろしく旦那の姓を使い続けて活動するが、元夫に頼らず独立独歩の道を歩んでいく。
44年(45年説も)にノースキャロライナ州で生まれ、ペンシルヴァニア州で育ったベティ。両親の影響で幼少期からブルースのレコードを聴いていたという彼女は16歳で祖母のいるNYに向かい、服飾や演技などアート全般を学んだ後、歌手デビューを果たす。最初に出したのは、ドン・コスタの制作でテディ・ランダッツオがアレンジしたオールディーズ系のポップ・ソウル“Get Ready For Betty”(64年)。が、その後モデルやクラブ経営者として成功を収めるなかでチェンバース・ブラザーズと親交を深め、ファンクに接近。ベティは彼らの“Uptown”(67年)でペンも執り、これがキッカケでコロムビアと契約すると、当時恋仲にあったヒュー・マセケラのアレンジでジェリー・フラーが制作したシングル“Live, Love, Learn”(カップリングは“It’s My Life”)を68年に出す。ここまでの作品はベティ・メイブリー名義で、マイルスと結婚してデイヴィス姓を名乗るのはその後のこと。が、すぐに結婚生活が破綻したせいか、コロムビアでマイルス一派と録った音源はお蔵入りとなってしまう。
離婚後、エリック・クラプトンと付き合いはじめて短期間イギリスに住み、そこで出会ったT・レックスのマーク・ボランに「自分のために曲を書くべきだ」と言われたベティは、訪英していたサンタナのマイケル・カラベロに連れられて帰国。72年にジャスト・サンシャインと契約して翌年に発表したのが、グレッグ・エリコやラリー・グラハムといった元スライ一派の腕利きたちと組んだデビュー・アルバム『Betty Davis』だった。音楽はスライやジミヘンに影響を受けたアグレッシヴなファンク~ロックで、力強くワイルドな声で明け透けにセックスを歌う女性上位的な歌詞がウーマン・リブ運動の波に乗って評価を受ける。同社でもう1枚出した後、ロバート・パーマーと恋人関係になった縁でアイランドと契約した彼女は、3枚目のアルバム『Nasty Gal』(75年)でも表題通りナスティーなイメージを打ち出した。が、数年前までは受け入れられた奔放で挑発的な主義主張もラジオ局や黒人コミュニティーから反感を買うようになり、もう一枚アルバムを作っていたもののアイランドからお払い箱に。結局、79年に行った録音を最後に音楽業界から遠ざかってしまう。
リック・ジェイムズはそんな彼女のビッチな態度を絶賛していたようだが、ベティが表舞台から消えた後にリックが破天荒なキャラでスターとなり、プリンスやマドンナが挑発的なスタイルで成功したことを考えると、時代の先を行き過ぎていたのだろう。世の中がベティに追いついたのはそれ以降のこと。各時代の未発表音源が後になって出されたことがその証だ。制作中とされるドキュメンタリー映画も彼女の革新ぶりを伝えてくれることだろう。