NYはハーレムが生んだ偉大なディスコ・ミュージックの巨匠、パトリック・アダムスが天に召された――後のガラージ~ハウスに直結するソウルフルなダンス・ミュージックの礎を築いた鬼才をソウルの目線から追悼しよう!
ディスコ・ミュージックの巨匠、パトリック・アダムスが6月22日に亡くなった。享年72。プロデューサー、ソングライター、アレンジャーで、鍵盤なども演奏する彼は、主に70年代から80年代前半にかけて夥しい数のレコードを制作。複数の覆面プロジェクトも立ち上げ、現在ブギーとして持て囃されている刺激的なダンス・ミュージックを生み出した。インナー・ライフ“I’m Caught Up(In A One Night Love Affair)”、ユニバーサル・ロボット・バンド“Dance & Shake Your Tambourine”、フリーク“Weekend”、ミュジーク“In The Bush”あたりは彼を紹介する際に真っ先に挙げられる曲だろう。サルソウルやプレリュードのほか、P&P、レッド・グレッグといったNYのインディペンデント・レーベル、さらにアトランティックなどのメジャー・レーベルでも仕事をこなし、ハービー・マンのディスコ・ジャズ・アルバム『Super Mann』(78年)も手掛けるほどであった。
だが、最初からディスコ・プロデューサーだったわけではない。ディスコ・ムーヴメントが到来するまでは、スウィート・ソウルなどを手掛ける裏方としてキャリアをスタートさせている。
NYハーレム出身のパトリックは、少年時代にトランペットやギターを手にし、ラジオで聴いた曲のアレンジメントを研究するなどして創作を開始。プロデューサーという仕事もよく知らないまま音楽の仕事に憧れていた。アポロ・シアターの近所に住んでいたこともあって、日常的にライヴやリハーサルを見る機会に恵まれていた彼は、ある時、ミラクルズのライヴでやってきたスモーキー・ロビンソンと対面。プロデューサー/ソングライター志望の若者に対するアドヴァイスを求めたところ、スモーキーから「Forget it!」と言われたという。〈なるようになる〉くらいのニュアンスだろうか。これはパトリックにとって生涯最高のアドヴァイスになったと、2013年に〈Red Bull Music Academy〉でレクチャーした際に語っていた(以下でも同レクチャーの発言を一部引用)。
60年代後半にスパークスというグループでも活動していたパトリックは、70年にパーセプション/トゥデイの音楽スタッフとして雇われ、最終的にはレーベル運営の要職に就く。そこで手掛けたのが、後に音楽パートナーとなるリロイ・バージェスを含むブラック・アイヴォリーであった。トム・ベルが作るフィリー・ソウルに憧れていたパトリックはグループにスウィートな曲を提供し、ストリングス・アレンジャーとしての才能も開花させる。同レーベルではソウル・アクトのほか、アストラッド・ジルベルトのアルバムにも関わっていた。その後、レーベルのクローズに伴って同社を去ると、自身のプロダクションを設立。ここからアレンジやCM音楽の制作などで多忙の日々が続いていく。