ギャンブル&ハフの作法とはまた異なるオーケストラルなアレンジ、優美で儚げなメロディーの魔法――フィラデルフィアから音楽史上に残る名曲の数々を生み出してきたトム・ベル。その名仕事を改めて堪能しよう

 フィリー・ソウルの立役者といえばケニー・ギャンブルとリオン・ハフ、そしてもうひとり忘れるわけにはいかないのがトム・ベルだ。モータウン~インヴィクタスのホーランド・ドジャー・ホランドにも刺激を受けながらギャンブル&ハフと音楽出版社のマイティ・スリーを立ち上げ、三巨頭のひとりとして、70年代を中心に数多くのプロデュース、ソングライティング、アレンジを手掛けた男。その華麗な仕事歴は、ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ(PIR)から登場した名作群のクレジットを見ればわかるが、独立精神が強かった彼はフリーランスの道を選び、PIRやMFSBと組みながらも、ギャンブル&ハフとは違う流れでフィリー・ソウルの発展に貢献した。

 ギャンブル&ハフがバリトン/シャウター系のシンガーを好み、社会的な曲を得意としたのに対し、ベルはファルセットやテナーのシンガーに入れ込み、スウィートなラヴ・ソングを多く手掛けた。後にプリンスがカヴァーしたデルフォニックス“La La Means I Love You”(68年)やスタイリスティックス“Betcha By Golly, Wow”(71年)はベルの代表作だが、どこかヨーロピアンな薫りを放つ優美な楽曲を作る彼を、シグマ・サウンド・スタジオのエンジニア、ジョー・ターシアは〈黒人版のバート・バカラック〉と形容。実際にベルはバカラックを慕っていた。

 本名はトーマス・ランドルフ・ベルで、愛称がトミー。43年にジャマイカのキングストンで10人兄弟の5人目として生まれ、フィラデルフィアで育っている。ファミリーは音楽一家で、スピナーズの“Sadie”(74年)には父が演奏していたハワイアン・ギターやアコーディオンを隠し味として入れたほど両親からの影響が強く、ジャマイカ人の母親がやっていたピアノを幼少期から開始。クリスマスにドラム・キットをプレゼントされ、フリューゲルホルンも手にした彼は、5歳から17歳頃まで地元の音楽教室でクラシックやジャズも学んでいる。が、ラジオを聴きはじめた18歳の時にリトル・アンソニー&ジ・インペリアルズのヒット“Tears On My Pillow”(58年)を数年遅れで知り、ポップ・ミュージックに開眼。ここでベルの運命が変わる。

 プロとしての初仕事はシンガーで、姉の高校の友人だったケニー・ギャンブルとデュオを組んで、ケニー&トミー名義でジェリー・ロスのヘリテッジから59年にデビュー。それがギャンブル率いるロミオズに発展した。やがて高校を中退すると、ピアニストとしてフィリーやNYの名門劇場で演奏、サム・クックのバックも務めたというから相当な腕前だったのだろう。バカラックが書いたチャック・ジャクソンの名曲“Any Day Now”(62年)で鍵盤を弾いているのもベルだという。その後は、地元フィリーのカメオ/パークウェイでバック・ヴォーカリストやピアニストとして活動し、オーロンズなどをサポートしている。

 同時に曲も書いていたが、3コードの単純な曲に飽き足らず、ベルはクラシック音楽の素養を活かして、もっと手の込んだ曲を作ろうとしていた。この頃に出会ったのが彼をポップ・ミュージックに目覚めさせたリトル・アンソニー&ジ・インペリアルズの“Goin’ Out Of My Head”(64年)で、テディ・ランダッツォが作るメロディやドン・コスタのアレンジに衝撃を受けたベルは進むべき道を確信したようだ。その後、10年も経たぬうちにインペリアルズの作品でランダッツォと制作を分け合うのも凄いが、それもこれもスタン・ワトソン主宰のフィリー・グルーヴにてデルフォニックスを手掛け、大ヒットに導いたことで扉が開けたのだ。デルフォニックスのセッションではティンパニやハープシコードなど17もの楽器を担当。“Didn’t I (Blow Your Mind This Time)”(69年)に代表されるフリューゲルホルンやエレキ・シタール、ヴィブラフォン、グロッケンシュピールなどの音色はベルのトレードマークとなった。デルフォニックスのリヴァイヴ作を手掛けたエイドリアン・ヤングを虜にした、あの音だ。

 一方でギャンブルとの関係は続いており、PIR誕生後もオージェイズ“Back Stabbers”(72年)などのアレンジを手掛けていくが、70年代に入る頃には女性作詞家のリンダ・クリードと共同作業を開始。コニー・スティーヴンスに提供した“Keep Growing Strong”(70年)を“Betcha By Golly, Wow”と改題して吹き込んだスタイリスティックスの制作ブレーンとして、3枚のアルバムに関与してグループを成功に導く。そして今度は、モータウン(デトロイト)にいたスピナーズをフィリー色に染め上げて、名曲を量産。ただ、スピナーズの作品では、ソングライターとしてよりもプロデュースとアレンジに力を注ぎ、曲作りはジョセフB・ジェファーソン(今年7月に他界)やチャールズ・シモンズらフィリーの仲間に委任。同時期に手掛けたジョニー・マティスやニューヨーク・シティ、スピナーズと“Then Came You”(74年)で共演したディオンヌ・ワーウィックなど、弟のトニー(アンソニー・ベル)も起用しはじめたこの頃の制作曲がデルフォニックスやスタイリスティックスのクラシック音楽的な神々しさとは違ってポップでグルーヴ重視になったのは、そうしたスタッフの変化も一因なのだろう。同時期にベルはPIR傘下にサンダーを立ち上げ、ソウル版カーペンターズとでも言うべき兄妹(or姉弟)デュオのデレク&シンディも送り出している。

 PIRではオージェイズの78年作『So Full Of Love』にて“Brandy”なども手掛けたベル。ベル&ジェイムスとしてデビューした甥のリロイ・ベルとケイシー・ジェイムスとの共同作業も増え、ベルボーイ・プロダクションズを興した彼(ら)はエルトン・ジョンのフィリー詣でにも貢献した。当時ベルは、夫人の病気で拠点をシアトル近郊に移していたが、MFSB一派との関係はキープ。80年代前半には、ディーディー・ブリッジウォーター、テンプテーションズ、デニース・ウィリアムスらをエレガントな音で包み、フィリーの良心ぶりを見せつけている。その後、離婚や再婚に加え、86年には以前の音楽パートナーだったリンダ・クリードが37歳の若さで他界、PIRの失速もあって仕事量は減るも、フィリス・ハイマンやジェイムス・イングラムを手掛けるベルの優美な音作りに狂いはなかった。

 2006年にはソングライターの殿堂入りを果たし、その前後にはジョス・ストーンやニッキー・ジーンにも魔法をかけた。そんなベルの技法をジル・スコットなどのネオ・フィリー作品で応用したのが、かつてMFSBのチェロ奏者としてベルのセッションに参加し、兄貴分として彼を慕っていたラリー・ゴールドだったというのも美しい話である。