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【IN THE SHADOW OF SOUL】第136回 ナット・ターナー・リベリオン(Nat Turner Rebellion)

連載:ソウル・ミュージックの光と影

〈ブラック・パワー〉が声高に叫ばれるようになった時代、そこにシンクロして音楽的にも前進したソウル/ファンクのサウンドはメッセージを伝える強力な武器となった。今回は幻に終わったフィリー・コンシャスの雄を紹介!

 アメリカ黒人が受けてきた差別の歴史を辿ると〈ナット・ターナーの反乱〉という事件に行き着く。1831年8月21日にヴァージニア州サウサンプトン郡で伝道者のナット・ターナーが仲間の黒人奴隷たちと蜂起し、50人以上の白人を殺害した一件だ。結果、首謀者のナットは同年11月に絞首刑に処せられるが、奴隷解放宣言にも繋がる行動を起こしたヒーローとして、その武勇伝はいまなお語り継がれている。いわばブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動の元祖とでも言うべき人物で、事件そのものに関しては賛否あるが、60年代後半、この反乱に因んで命名したナット・ターナー・リベリオン(NTR)というグループが登場した。ヴァージニア州ピーターズバーグ出身のマルチ・ミュージシャン、ジョセフB・ジェファーソンを中心とした4人組だ。

 スウィート・インスピレーションズのツアーにドラマーとして参加していたジョセフが、他人のためではなく自分の曲で演奏したいと思い、地元の仲間であるロン・ハーパー、メイジャー・ハリス、ビル・スプレイトリーと69年に結成。ジョセフは大昔に地元近くで起きた黒人奴隷の反乱について母親から伝え聞いていたが、65年にマルコムX、68年にキング牧師と、黒人指導者が相次いで暗殺されたことが彼の心を動かしたのだろう。ブラック・パンサー党のヒューイ・P・ニュートンのラディカルな思想に共鳴していたジョセフは、自身をナット・ターナーの化身とし、ポスト公民権運動時代に生きる音楽家として決起する。もちろん、ジェイムズ・ブラウンを筆頭にブラック・パワーを叫んだソウル/ファンクが台頭していた影響もあるだろう。スライ&ザ・ファミリー・ストーンに憧れ、ジミ・ヘンドリックスのロックにスウィートなハーモニーを混ぜたという音楽は、サイケデリック・ソウル期のテンプテーションズにも通じていた。当時ジョセフはフィラデルフィアのシーンで活動していたことから、楽曲は同地のシグマ・サウンド・スタジオで録音。演奏は後にMFSBを名乗る面々で、フィリー・ソウル黎明期のラフな躍動感もNTRの持ち味となっている。

 デルフォニックスを看板としたスタン・ワトソン主宰のフィリー・グルーヴと契約した彼らは、傍系のデルヴァリアントとフィリー・ソウルヴィルから70~72年に数枚のシングルを発表。第1弾シングルの“Tribute To A Slave”はフィリー・ソウルらしい滑らかさのあるソウル・ストンパーで、かつてナット・ターナーのもとで戦った黒人奴隷たちを称えた歌であることは表題からして明らかだ。が、グループ名も含むコンセプトや歌詞が政治的すぎるとの判断から、ワトソンはNTRを見放す。同時期にデルフォニックスが甘い恋の歌で成功を収めていたとなれば無理もない。

 結局、ノーマン・ハリスの制作で72年にリリースを予定していたアルバムは未完成に終わり、金銭トラブルもあってグループ自体も解散。彼らの解散と入れ替わるようにギャンブル&ハフがフィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ(PIR)を設立し、黒人意識を打ち出したメッセージ・ソングを連発していくのは皮肉な話だが、解散しなければPIR入りをしていた可能性もなくはない。

 そんなNTRの未発表音源が、フィラデルフィアのドレクセル大学が管理するシグマ・サウンド・スタジオのアーカイヴから発見されたのは2014年のこと。それらを、同大学が運営するレーベル、マッド・ドラゴンが既発シングルを含めて2019年に『Laugh To Keep From Crying』としてLP化したことで彼らの音楽は息を吹き返す。アルバムの表題には、71年のシングルB面曲だったテンプス風サイケ・ファンクのタイトルを引用。〈泣かないために笑う〉とは、笑うしかないほど当時の黒人たちが苦しい状況に置かれていたことを意味するのだろう。今回はそのアルバムが曲順やジャケットなどを変更し、CDも含めた一般流通商品としてリリース。BLMが叫ばれるこの時代に彼らの音楽が世に放たれたことは、タイミング的にも申し分ない。結果的に同作は、2020年7月に亡くなったジョセフのトリビュート作にもなった。

 アルバム表題曲のカップリング(A面)だった“Can’t Go In Livin’”では名義にメイジャー・ハリスの名前がクレジットされていたように、彼の歌唱力やタレント性はグループ内で抜きん出ていたのだろう。デヴィッド・ラフィンのようなしゃがれ声でリードを務めた彼は、解散後にデルフォニックスに加入し(“Can’t Go In Livin’”は74年のアルバムで再演)、ソロとしても活躍する。ソロ時代には、ノーマン・ハリスが関与したNTRのシングル“Ruby Lee”(72年)のセルフ・カヴァーを76年作『Jealousy』にて披露している。また、ビル・スプレイトリーもABC移籍後のハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツに加入したほどの実力派だった。

 一方のジョセフは、NTRも同行したデルフォニックスのツアーでギターを弾いていたトニー・ベルを通して彼の兄弟トム・ベルと出会う。自作曲をトムに気に入られた彼はアトランティックと契約したスピナーズの裏方となり、ガールフレンドとの別れをテーマにした“One Of A Kind(Love Affair)”を提供。その後、チャールズ・シモンズやブルース・ホウズと組んで、スピナーズを手掛けながらPIRでも仕事を増やしていく。作風はNTRの時から一転し、オージェイズ“Brandy”やジョーンズ・ガールズ“This Feeling’s Killing Me”のようなモダンでメロウなラヴソングが目立った。それは時代の変化に加えて、NTRでコンシャスな路線を究めたことへの反動だったのかもしれない。 *林

ジョセフ・ジェファーソンの参加した作品を一部紹介。
左から、MFSBの78年作『MFSB, The Gamble-Huff Orchestra』、シルクの79年作『Midnight Dancer』(共にPhiladelphia International/ソニー)