BTエクスプレスやエンチャントメントなどソウル史上における重要グループを輩出したレーベルながら、イマイチ実体の見えづらかったロードショウ。今回は主要作のリイシューを契機に、その根本的な魅力と功績の大きさを改めて捉え直してみよう
70年代ソウルの隠れた名門――このたび日本で復刻が始まったロードショウは、BTエクスプレスやエンチャントメントらを輩出したレーベルとしてソウル・リスナーの記憶に刻まれている。だが、特有のサウンドがあるわけでもなければ、大規模なムーヴメントを起こしたというわけでもないので特徴は掴みづらい。70年代を通してディストリビューターが次々と変わっていったことも実態を見えづらくしている理由だろう。72年の設立直後はステレオ・ディメンション、74~75年はセプター、76~78年はユナイテッド・アーティスツ(UA)、79~80年はRCAの配給で作品をリリースし、BTエクスプレスに関しては70年代中期にコロムビアと契約を結びながらロードショウのロゴを刻むなど、その経緯はちょっとばかり複雑だ。
創設者は、エピックのプロモーション・ヘッドとして活躍していたフレッド・フランクと、ジャズ・トランペッターでコロムビアのアシスタント・アート・ディレクターを務めていたシド・モーラー。主に舵を取っていたのはフレッドで、ドン・ダウニングやJ・ケリー&ザ・プレミアーズなどのシングルを出した後、フレッドが要職に就いたセプターからBTエクスプレスを送り出した際にロードショウを同社傘下に収め、レーベルを軌道に乗せていく。
看板アクトとなったのは、やはりBTエクスプレスだ。NYはブルックリンから登場したファンク・バンドで、母体はマネージャーの名前にちなんだキング・デイヴィス・ハウス・ロッカーズ。ヴィジターズと改名したという説もある同グループは60年代後半からシングルを出していくなかでファンク色を強め、マディソン・ストリート・エクスプレスと名乗る頃にはメンバーを増員し、ロードショウと契約。同じブルックリン出身のブラス・コンストラクションも手掛けることになるジェフ・レーンをプロデューサーに迎えたところでBTエクスプレスと名乗った。BTエクスプレスとはブルックリン・トラッキング・エクスプレスの略(以下BT)。74年にデビューした彼らは、そのグループ名よろしく“Express”というほぼインストのシングルを発表し、1~2枚目のジャケットにも列車(のホーム)や貨物車を写していた。当時のソウル・シーンではオージェイズの“Love Train”やTV番組「ソウル・トレイン」に象徴されるように夢や希望を列車に託すことがブームになっていたが、おそらく彼らもそうした動きに反応したのだろう。ロードショウ初期のラベル面に描かれていたイラストも「ソウル・トレイン」的な列車(ワンポイントのロゴではバス)で、そんなレーベル・イメージを体現したのがBTだったわけだ。
ジャケ写から判断できるように、BTは常に6名以上がいた大所帯のバンドだ。メンバーは出入りも多かったが、74年から82年までの7枚すべてのアルバムに参加したのは、ビル・リスブルックとルイス・リスブルック(後にジャマル・ラスールと改名)の兄弟、リチャード・トンプソン、デニス・ロウの4人。初期の3枚には紅一点のバーバラ・ジョイスも参加し、3~5作目には後にカシーフとして80年代NYサウンド~ファンクの要となるマイケル・ジョーンズも籍を置いた。グリッティなディスコ・ファンクを軽やかに奏でていたバンドは、マイケル(カシーフ)が抜けた後にモリー・ブラウンの制作で都会的なNYサウンドを取り込むことになるが、モリー含むマイティMプロダクションに鍵盤奏者として起用されたのがカシーフであり、そうした流れを見るとBTはディスコとブラコンの橋渡し的な役目を果たしたバンドだとも言える。
BTがコロムビアと契約を結ぶ一方で、UAの幹部と懇意になったフレッドは、続いて同社の傘下にロードショウを置いた。そのUA配給期の主要アクトとなったのがエンチャントメントである。エマニュエル・ジョンソンのハイ・テナーを武器に、同郷の名匠マイケル・ストークスのプロデュースでダンサブルなアップやスウィートなスロウを歌ったデトロイトの5人組ヴォーカル・グループ。この時期にはウィナーズやモーニング・ヌーン&ナイト、ゴスペルのシャーリー・シーザーなどもアルバムを出しているが、エマニュエルはストークスとのコンビでこれらのグループの楽曲にも関与するなど、一時的にロードショウの座付き作家的なポジションにもいた。
RCA配給期には、エンチャントメントに加えて、タッチ・オブ・クラス、アル・ウィルソン、ベン・ムーア、ドン・ダウニング、ソワレ、ウィッチ・クイーンなどのアルバムを他社との共同原盤作も含めてリリース。ロードショウとしてのリリースは80年代初頭にほぼ終了しているが、同時期にコースト・トゥ・コーストというサブ・レーベルをコロムビア傘下に立ち上げ、ここからはUKディスコの歌姫ケリー・マリーのアルバムも発表。こうして振り返ると、ディスコ・ブームの波に乗りながらも軸を見失わず、ソウルやファンクの魅力を濁りなく伝えたのがロードショウの功績だったのだと思う。フレッドの確かな審美眼がモノを言ったレーベルだったのだ。