偉大なるクール&ザ・ギャングを世に出し、ソウル~ファンク~ディスコの歴史に名を刻むNYのレーベル=ディライト。とはいえ彼らの功績を単純化してはならない。このたびリイシューが整った名作群と共に〈NYサウンドの元祖〉たる名門の歩みを振り返ろう!
NYを本拠地としたダンス・ミュージックのレーベルといえば、サルソウル、プレリュード、ウェストエンドなどが思い浮かぶが、それ以前、ディスコ前史の時代に設立されたのがディライトだ。68年、プロデューサーのジーン・レッドJrによってソウルやファンクに特化したレーベルとしてスタート。クインシー・ジョーンズとも仕事をしたことがあるというジーンはドゥワップのシンガーでもあったようで、身内も、父親がキングのA&R、姉(or妹)が80年にプレリュードから出した“Can You Handle It”で知られるシンガーのシャロン・レッドという環境の中で音楽業界に足を踏み入れている。
最初に契約したのはクール&ザ・ギャングで、看板アクトとしてレーベルと運命を共にしたのも彼らだった。もともとはジーンがディライト設立前に始めたレッド・コーチと契約し、60年代後半にファースト・シングル“Kool And The Gang”を発表。一時期チェスが配給したレッド・コーチは後にエヴリデイ・ピープルらの作品も出していくレーベルだが、クール&ザ・ギャングは早々に新設されたディライトへ移籍している。メンバーのロバート“クール”ベルによると、ジャズ色の強かったバンドをよりコマーシャルな音楽をやるように仕向けていったのは初代マネージャーでもあったジーンだという。そうして誕生したのが“Jungle Boogie”や“Hollywood Swinging”といった一連のファンクで、以降もディスコ~ポップ・ソウルと音楽的な変化を遂げていくことは衆知の通りだ。ちなみに彼らは当初クール&ザ・フレイムズと名乗っていたが、すでにジェイムズ・ブラウンのフェイマス・フレイムズがいたためクール&ザ・ギャングと改名。これはジーンの父がキングのA&RでJBのロード・マネージャーをやっていたことも遠因となったのかもしれない。
70年代に入って、ダイナミックスが所属したデトロイトのブラック・ゴールドも傘下に置いたピックウィック・インターナショナルの配給で全国的なレーベルへと成長を遂げたディライトは、すでにあったレッド・コーチの他に複数のサブ・レーベルも発足させた。クール&ザ・ギャングの運営で、彼らの弟分とでも言うべきケイ・ジーズやトゥモローズ・エディションを抱えたギャング、GQの前身にあたるリズム・メイカーズやストリート・ピープルらを輩出したヴィガーがそれで、ディープなシンガーやスウィートなヴォーカル・グループなどのシングルも出しながら多様化するソウル・シーンに対応していく。ディスコ・ブームが到来した75年にはクール&ザ・ギャングに次ぐ看板となるクラウン・ハイツ・アフェアと契約。この前後からディライトやギャングのシングル盤には〈The New York Sound〉という文字が刻まれはじめるのだが、これはNYのダンス・ミュージック・シーンに参入してきたサルソウルなどの新進レーベルに対して〈元祖〉を主張したように思えなくもない。むろん、ディライトがそれだけの実績を上げてきたのは事実で、少なくとも70年代いっぱいまでは、ソウル/ファンクという軸を見失わず、NYダンス・ミュージックの中核をなすレーベルのひとつとして機能していた。
70年代後半にはピックウィックを買収したポリグラムがディライトの配給元となり、JTテイラーを新リードに迎えたクール&ザ・ギャングはポップ色を強めて第2の黄金期に突入。一方で80年代前半にはコーヒーやリオン・ブライアント、モティヴェーションらがディスコをベースにしたピュアなソウルやファンクのレコードをリリースしている。が、85年にはマーキュリーにクール&ザ・ギャングともども吸収合併され、レーベルは事実上の閉鎖となった。この頃、創設者のジーンはエピック発となる男性トリオ、BMPのアルバム『Loc It Up』(85年)をプロデュースしているのだが、他社の作品に手を染めたあたりからして彼の中でディライトは終わっていたのだろう。しかし〈凋落〉とは最後まで無縁だった。
クール&ザ・ギャングに始まり、クール&ザ・ギャングに終わったディライト。彼らと共に成功を味わい、同時に多くの個性豊かなアーティストを送り出して、打ち込みサウンドの本格到来を横目で見ながら幕を閉じたのは幸せな結末だったと言えるのかもしれない。 *林 剛
クール&ザ・ギャングの作品を一部紹介。
関連盤を紹介。