このたびリイシューされたホットランタ~アウェア産のホットな名品たちを紹介!

 90年代にアトランタがR&Bやヒップホップの一大拠点となるまで、ソウル・ミュージックにおいて同地の印象は薄かった。同じ米南部でもスタックスやハイを生んだメンフィスのようなサウンドの特色は見い出し難く、全国的に知られるようなムーヴメントも起きていない。とはいえ、黒人の人口率が高いアトランタ。ローカルでは60年代からリー・モーゼスらのシンガーが活躍し、プロデューサーのビル・ヘイニーらが先頭に立ってレーベルを設立するなど、サザン~ディープ・ソウルの隠れた名所でもあったのだ。

 とりわけ70年代前半~中期には、温暖なアトランタの愛称に由来するホットランタ、アウェアといったレーベルが、後世に語り継がれるようなソウルの名曲/名盤を送り出していた。アウェアからのロリータ・ハロウェイ“Cry To Me”(74年)などはよく知られているが、それらのレーベルの親会社となっていたのがGRC(ジェネラル・レコーディング・コーポレーション)である。ポルノ業界の黒幕として名を馳せていたマイケル・シーヴスという男が社会的な信頼を得るために、多角経営していた企業の一部門として傘下で音楽レーベルを始めることになったのだ。

 GRCは72年にアウェアを始動させ、ブルージーでファンキーな曲を歌うキング・ハンニバルをはじめ、ロリータ・ハロウェイ、ジョン・エドワーズ、さらにはウェストバウンドから移籍してきたカウンツらの作品を輩出。ホットランタも、西海岸で活動していたジミー・ルイス、ジョー・ヒントンらのディープな作品を扱った。それらのいくつかは、マイケルがアトランタで運営していたサウンド・ピット・レコーディング・スタジオで録音されたものだ。が、アトランタならではの特色というものは掴み難く、強いて言えば一部の作品に当時全盛だったハイのモタッたサウンドの影響がわずかに感じられる程度。地元の出身者もキング・ハンニバルなど少数で、同地のシンガーに共通した傾向として〈吐き出すような唱法〉がアトランタ的だと言われてきたが、どうなのだろう。

 GRCはショウタイム・プロダクションとも契約を結び、サム・ディーズでお馴染みのクリントーンやムーンソングといったアラバマ(バーミングハム)のレーベルと連携。サムのほか、ビル・ブランドンやCL・ブラスト、ロゼッタ・ジョンソンらの音源も管理した。73年にはGRCもレーベル化され、ゴスペルのドロシー・ノーウッドやファンク・バンドのリップルなどが加わるが、ここで一番売れたのはカントリー・シンガーのサミー・ジョーンズであった。そうした雑食性や包括力はTKプロダクションに近いのかもしれない。

 LAやナッシュヴィルにもオフィスを構え、事業を拡大しようとしたマイケル。しかし、法的な問題で告訴され、75年末にはレーベルともども解散状態となる。ただし、ホットランタは独立して生き残り、ガストンらの作品をリリース。現在、GRC傘下および関連レーベルの音源はジン・ミュージック・グループ(GMG)が管理している。アトランタ発のディープな秘宝は、いまも輝き続けながら、リスナーをホットな南部の地に運び、心を豊かにしてくれるのだ。 *林

GMG所有の音源を用いたコンピ。
左から、『Come Back Strong: Hotlanta Soul 4』(Kent Soul)、『Southern Groove: Hotlanta, Aware & Clintone Funk & Soul』(BGP)