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ブルースに根差した独自の歌心

 本名シルヴェスター・トンプソン。1936年にミシシッピ州ホリースプリングスで生まれ、綿花畑で小鳥のさえずりを耳にして歌を覚えたという。その後、兄弟のマック・トンプソン(彼もベーシストとして活躍)と共にシカゴのサウスサイドへ向かい、先に移住していた両親たちと合流。50年代には主にギタリストとして活動し、マジック・サム、ジュニア・ウェルズ、ハウリン・ウルフといったブルースマンとセッションを行った。しかし当時の彼は、ブルースを自身のルーツだとしながらも新しいスタイルの歌に挑戦したいと燃えていた。59年にキング傘下のフェデラルから発表したソロ・デビュー・シングル“Teardrops”からも感じ取れるように、ジャッキー・ウィルソンのようなソウルを歌いたかったのだろう。フェデラルを筆頭に複数のレーベルからシングルを出した後、67年からは地元のトワイライト/トワイナイトに籍を置き、“Come On Sock It To Me”(67年)のヒットで全米にその名が知られていく。トワイナイトではノーテーションズの初期シングルなどもプロデュースしていた。

 だが、舞台はシカゴだけに止まらなかった。ファースト・アルバム『Dresses Too Short』(68年)の表題曲などをメンフィスのハイで録音していたシルは、71年にウィリー・ミッチェルが主宰するハイと契約。同社から出したアルバム4枚のうち3枚をミッチェルのプロデュースで録音する(ここでハイ・リズムの一員としてドラムを叩いていたのが、シルの6日後に他界したハワード・グライムスであった)。ハイでは看板だったアル・グリーンの陰に隠れてしまった印象もあるが、作者のアルが先に発表するも当初はシルのために書かれた“Take Me To The River”が75年にR&Bチャート7位を記録。これはシル最大のヒットとなった。艶かしい声で迫るアルに対して、シャープな声でファンキーに迫るシル。アルだけでなくシルの活躍もハイのブランドを格上げしたことは間違いない。

 80年代には自身のシャマ、ボードウォークなどから快作を放つも、先述の通りレストラン経営で音楽活動は停滞。が、ヒップホップ界隈からの再評価を機に、デルマークからの『Back In The Game』(94年)の表題通り音楽界に復帰。娘シリーナをお披露目しはじめたのもこの頃で、父娘での共演アルバム『This Time Together By Father And Daughter』(95年)、彼女のソロ・デビュー作『Love Hangover』(98年)も全面サポートした。以降、サンプリング使用に目を光らせながら活動を続け、2007年に古巣トワイライト/トワイナイトの権利を取り戻したシルは、レーベルの再興を謳ってオーストラリアの女性シンガー、メロディをデビューさせたりもしている。シカゴに拠点を置く発掘レーベルのニュメロがシルの初期音源(59~72年)を完全網羅したボックス・セット『Complete Mythology』(2010年)を作ることができたのも、シルが全マスターを奪回すべく裁判で闘ったおかげだろう。グラミー賞で2部門にノミネートされた同ボックスは惜しくも受賞を逃したが、ストリートの声を掬い上げ、ヒップホップのシーンも豊かにした彼の音楽はアワードで優劣をつけられるものではない。件のドキュメンタリーでシルは言った。「勝者の気分だ。成功したと自信をもって言える」と。 *林 剛

シル・ジョンソンのリサイクル例が聴ける作品を一部紹介。
左から、エリックB&ラキムの87年作『Paid In Full』(4th & B’way)、ジェイ・Z&カニエ・ウェストの2011年作『Watch The Throne』(Def Jam)、サラーム・レミの2020年作『Black On Purpose』(Louder Than Life)

 

左から、シル・ジョンソンのボックスセット『Complete Mythology』、ノーテーションズの編集盤『Still Here(1967-1973)』(共にNumero)、シル・ジョンソン&ジミー・ジョンソンの2001年作『Two Johnsons Are Better Than One』(Evidence)