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 独立直後は、シスター・スレッジのデビュー作『Circle Of Love』(75年)への楽曲提供をはじめ、エイス・スペクトラムやアル・ハドソン&ザ・ソウル・パートナーズなどアトランティック系列の作品に関与。ブラック・アイヴォリーの仕事で培ったソウル・マナーをベースに、ヴォーカル・グループをサポートする名匠としてモダンなセンスを発揮していく。同じ頃、ドナ・サマーの曲を聴いてディスコ・ミュージックに魅せられたパトリックは、P&Pを主宰するピーター・ブラウンと出会い、同社の音楽/ビジネス・ブレーンとして新たな一歩を踏み出す。そこで誕生したのが、パトリックが仕切ったクラウド・ワンの『Atmosphere Strut』(76年)だった。アナログ・シンセでウニョウニョした音を鳴らすスタイルは彼のトレードマークとなり、レッド・グレッグを主宰していたグレッグ・カーマイケルとのユニバーサル・ロボット・バンドやバンブルビー・アンリミテッドの曲でも同様のシンセ音を用いるようになる。

 さらにブラック・アイヴォリーを一時脱退したリロイ・バージェスとは、フリークとしてアルバムを制作(78年発表)。後にサルソウル・オーケストラに関わる彼らしいフィリー・ソウル風の豪奢で陶酔感のあるダンス・ミュージックでディスコの熱狂に加担した。パトリックは、フリークの曲に起用したドナ・マッギーやヴィーナス・ドッドソンのソロ作も手掛け、その後もキャンディ・ステイトンやフォンダ・レイといった女性シンガーたちの曲をサポートしている。そうしたパトリック絡みの作品に演奏や制作で関わる面々はThe P.A. Systemと呼ばれ、ミュジークやダズィルもそのバックアップを受けて作られた。

 そんな時期にグレッグと共同で手掛けたのが、ジョセリン・ブラウンが歌うインナー・ライフの“I’m Caught Up(In A One Night Love Affair)”である。パトリックいわく、「インナー・ライフの曲はホランド=ドジャー=ホランドがディスコと出会ったようなもの」。彼は10代の頃、モータウンの熱心なリスナーだった。なかでも17歳の時に聴いたマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの“Ain’t No Mountain High Enough”に衝撃を受けたようで、インナー・ライフで同曲をカヴァーしたのはモータウンへのオマージュでもあったのだろう。80年前後には元テンプテーションズのエディ・ケンドリックスやデヴィッド・ラフィンのアルバムにもプロデュースもしくはアレンジで関与。リック・ジェイムス“Big Time”の制作に参加した際には、モータウンの一員になった気分だったのではないか。

 音楽制作においては絶好調だった。が、79年に起きた〈Disco Sucks!〉というディスコ排斥運動の煽りを受けたパトリックは、仕事の軸をプロデュースからエンジニアリングに移していく。80年代中期頃からはNYのパワー・プレイ・スタジオを根城とし、ソルト・ン・ペパ、エリックB&ラキム、ヘヴィD&ザ・ボーイズ、キース・スウェット、R.ケリー&MGMなどの作品で録音を担当。同じハーレム出身のテディ・ライリーがプロデューサーとして活躍し始めたのと入れ替わるように、パトリックはエンジニアとしてNYを中心としたストリート・ミュージックを陰から支えていったのだ。

 パトリックは、ダンス・ミュージックの作り手でありながらディスコにおける社交や享楽からは距離を置き、スタジオに篭って音楽を作ることに情熱を傾けたという。ナイル・ロジャースいわく「真のミュージック・マシーン」。その言葉通り、彼はストイックで探究心溢れる音楽家だった。 *林 剛

パトリック・アダムスが参加した作品を一部紹介。
左から、アストラッド・ジルベルトの72年作『Now』(Perception/BBE/OCTAVE)、ジュリアス・ブロッキントンの72年作『Sophisticated Funk』(Today/BBE/OCTAVE)、シスター・スレッジの75年作『Circle Of Love』(Atco)

 

左から、キャンディ・ステイトンの79年作『Chance』(Warner Bros.)、エディ・ケンドリックスの79年作『Something More』(Arista)、メイン・イングリーディエントの81年作『I Only Have Eyes For You』(RCA)

 

左から、P&P音源をまとめたコンピ『P&P Presents Happy Music & Friends』(OCTAVE)、ルイ・ヴェガの2018年作『NYC Disco』(Nervous)