巧者四人が象る星座を掲げる“プラネタリウム”
ピーター・ペジックは『近代音楽の形成と音楽』(NTT出版)の序章で、近代科学にとって数学は『ハムレット』におけるオフィーリアだと述べたホワイトヘッドの言を引き、数学がオフィーリアなら、音楽はハムレットの親友ホレイショーにあたるのではないかと持論を述べる。「亡霊の正体をいっしょに暴き、自分たちの哲学のその先に何があるのかを論じ、永遠の眠りにつく王子のために歌い、彼の物語を語る」――近代科学にとって音楽はそのようなものであることは、古代ギリシアの自然哲学で、音楽がとりわけ重要だったことからもわかるとペジックは筆を進め、私は相槌を打つ。詳しくは同書をあたられたいが急いでつけくわえると、ピタゴラス学派が彼らの教義「万物は数なり」とムーシケー(mousiké)をむすびつけたときから、「万物は音楽である」との見立てができた。純正律による3対2の周波数比である完全五度をもとにしたピタゴラス音律については、読者諸兄もじっさいに耳にされたことはなくとも聞きかじったことはあるだろうが、単純な整数比に還元できる関係は音楽を特別なものにした。調和するのである。その完全さは自然の縮図であり、自然とは神がつくりたもうたものであり、科学とはそもそもそれを統べるものにすこしでもちかづきたいと希求する人間の思索の営みであり、哲学と区別できない。
ここでいう自然とは世界の法則のようなものであり野生ではない。ものを投げたら放物線を描いて落ちる物理条件はもちろん、天体の運行も自然の一部である。地動説や天動説が宗教と切り離せないのもそこに理由がある。一方で、ときの経過とともに積み上がった知見は科学に近代化をもたらし、神的な心性は疑似的な科学に転化した、と断定するのは乱暴だとは思うが、占星術や錬金術にははたしてそのような心理的な機制はないでしょうか。
そう考えながら見上げてごらん夜の星を。
SUFJAN STEVENS,BRYCE DESSNER,NICO MUHLY,JAMES McALISTER Planetarium BEAT(2017)
東京の空には月齢11.3の月以外なにも見えない。しかしながらその先にも星々はある。太陽系の惑星は神話に借りた名前がついている。オランダのアイントホーフェン・ミュージックホールから楽曲の委嘱を受けたとき、ニコ・ミューリーが夜空を見上げたかはわからないが、彼はすぐさま友人であり何度か共演歴のあるスフィアン・スティーヴンスとザ・ナショナルのギタリスト、ブライス・デスナーに連絡をとった。ドラマー、ジェームス・マカリスターを誘ったのは長年の仕事仲間であるスフィアンだった。こうしてこの4人による共同作業がはじまった。曲の大枠はミューリーが担当し歌詞はスフィアンが書いた。スフィアンは連作の歌曲に神話や占星術やら古代の言い伝えやらをあてはめ、楽想はとめどなく壮大になった。弦楽四重奏と7本のトロンボーンの響きは、なるほど(ポスト)クラシカルだが、それらを基調に電子音とデジタルなリズムとオートチューン的に変調した声などの音響操作を加えたサウンドは、本誌前号でご紹介したカール・クレイグの『Versus』と一脈通じる、というよりむしろ私はポップさと実験性とのバランスにレディオヘッドに似た印象を受けた。各自の作家性は強く反映しているがバンドっぽいのだった。
メロディラインの美しさとアイデアの斬新さ、それでいて難解すぎないスコアはミューリーらしいものだが、スフィアンは「Neptune」「Jupiter」「Venus」といった惑星の名称を冠した曲にその由来となった伝承から引いたことばを重ね現代的な寓意をも引き出している。「Earth」でホルストの「惑星」から「木星」を想起させるメロディが顔を出すのは先達への敬意のあらわれ、ないしは遊び心だろうが、音楽と天体の永年の親和性も髣髴する。そのような題材は2017年の現在も枚挙にいとまがない。同時期に『Azul』をリリースするザ・ナイツは先鋭的なスタンスで定評のあるニューヨークの室内オーケストラだが、ヨーヨー・マを迎えたこのアルバムでは、ドヴォルザークの《月に寄せる歌》やシュトックハウゼンの『黄道十二宮』の《しし座》など、星に想を得た曲のシャープな演奏を聴くことができる。本作はまた、スフィアンの『Enjoy Your Rabbit』収録曲をマイケル・P・アトキンソンが編曲した「ラン・ラビット・ラン」組曲を収めているのである、と書くと木に竹を接ぐようだが、2作あわせて聴けば、あなたの音宇宙にさらなる広がりが生まれることうけあいである。